毛沢東(1893-1976)

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中華人民共和国の初代主席・毛沢東(マオ・ツェトゥン)は1893年12月26日湖南省湘潭県韶山の農家の子供に生まれました。家は朱元璋が明国を建てた時の武官の子孫で、20代続いた大農家でした。

子供の頃は秦の始皇帝や漢の武帝の話に夢中になり、ナポレオンやピョートル大帝、ワシントンなどの伝記も熱読したといわれます。

長沙の学校で学んでいましたが、18歳の時に辛亥革命が起きると学業を放棄して革命運動に参加、やがて長沙で湖南学生連合会を組織して活動します。そして1921年、28歳の時中国共産党の創立大会に参加。1926年広州農民運動講習所所長。この頃、「農村で都市を包囲する」といった思想が確立していったといわれます。

1930年政治抗争に敗れて紅軍の指導的地位を奪われますが、毛沢東抜きの軍が蒋介石の国民軍に破れ瑞金の地を明け渡してしまいました。このため1935年毛沢東は指導部に復帰。この翌年1936年西安事件が起きて、それを契機に国共合作が成立します。これ以降、国民党と共産党は一緒に日本軍に対抗しはじめます。

そして1945年日本がポツダム宣言を受け入れて中国からも撤退。共産党と国民党の戦いも再開されますが、連戦連勝で1949年国民党は台湾に移動。共産党は10月1日午後3時、北京天安門で中華人民共和国の建国を宣言しました。

毛沢東・周恩来やレーニン・スターリンが目指した共産主義の理論的基礎を作ったのはマルクスです。マルクスの考え方は経済社会の発展に政治体制の進歩が追いつかなくなると、やがて革命が起きて政治体制も劇的に変わるというものです。そして現在のまま経済社会が発展していけばやがて共産社会に移行するであろうとしました。

若きレーニンや毛沢東にとって、その「共産社会」というのは社会がたどりつく理想像と思えました。そこで彼らはそれをできるだけ早く実現しようとします。ここでレーニンやスターリンはそこにいきなり先進の技術を導入して、農業や工業を大改革し、飛躍的に生産力を増大させて共産社会を支えられるほどの強力な経済を確立しようとしました。

しかし理想家であったレーニンやスターリンに比べて、毛沢東はかなり現実主義者でした。更にはもっと現実的な目を持った周恩来(チョウ・エンライ)という優秀な副官がいました。この二人の会話は歴史上の色々な場面において、半ば漫才のように語られています。多くは毛沢東という裸の王様と周恩来という悩み多き宰相という描かれかたをしますが、初期の頃は毛沢東自身もかなり現実的であったようです。

毛沢東は農業用の機械を農村に導入して生産の拡大を図りたいと考えましたが、中国には現実にそれに間に合うほどの数の農業機械を生産できる施設がありませんでした。そこで彼はまずは農業の規模の拡大を図って効率化を進め、それで次第に生産力が付いてきたら、その余力で工場を作ろうと考えました。

この現実的な政策のおかげで、中国ではソ連のような千万人単位の餓死者を出さずに済みます。

しかし毛沢東は次第になかなか進まない共産社会への道に焦りを感じ始めます。そして1955年「農業17ヶ条」を作り、今後12間で農業生産を3倍にしようという政策を立てます。

『大躍進』の始まりでした。

この頃既に中国全体に毛沢東を一種のカリスマとして半ば神聖視する雰囲気ができていました。国民の中には毛沢東を清朝に代わる新しい王朝の皇帝と思いこんでいる者も多かったともいわれます。「民主主義は教えることはできない」日本でも何度も言われたことばでした。

このため、この大躍進政策に対して、それを無理だとして批判する声は封じられる一方、最初の数年間はどこの地区からも「目標を達成しました」という報告が上がってきました。

しかし後で分かったことによると、ほんとうに目標を達成した村はほとんど皆無であったといいます。多くの村で書類上の数字が水増しされ、検査の時はワラを積み上げた上に生産物を並べたり、どうしても足りない分を隣同士の村で貸し借りしたりして、上げ底で目標があたかも達成されたかのように見せました。

しかしこんなことが12年ももつわけがありません。数年後、あちこちで餓死者が出る騒ぎになります。

「大躍進」の失敗は明らかでした。

毛沢東は政策の誤りを認めて1959年4月、国家主席の地位を降りました。後を受けたのは劉少奇国家主席と登(ケ)小平総書記です。

しかしいったん野に降りた毛沢東は学生らを組織して1962年頃から下からの思想改革運動を始めます。

『文化大革命』の始まりです。

彼らがはじめ批判したのは当時のフルシチョフら、ソ連の指導部の考え方でしたが、やがて運動はエスカレートして劉少奇ら、国内の国家指導部に向けられていきました。この運動で指導的な役割を果たしたのは林彪と「四人組」と呼ばれた江青・王洪文・張春橋・姚文元らでした。

この結果、国民の声に押されるようにして毛沢東は実権を回復。劉少奇と登(ケ)小平は失脚し、特に劉少奇は公衆の面前で毛語録を暗唱させられるなど屈辱的な扱いを受けた末、さらに収まらない運動家たちの執拗な攻撃のため1969年憤死してしまいます。

文革においては都市のホワイトカラーなどが強引に農村に連れていかれ強制労働させられたり、暴徒化した紅衛兵が「反共的」とみなした文化人やスポーツ選手を惨殺したりします。更に後には、紅衛兵として文革に燃えていた若者たち自身が「反共的」と言われて強制労働に送られることになります。文革の犠牲者は数十万人といわれ、何らかの被害を受けた人は億の単位に達するようです。

そしてやがて最初の段階では文革の旗手として毛沢東の後継者ともみなされていた林彪副書記まで、追い込まれてクーデターを計画するも失敗。逃亡中飛行機が墜落して「謎の死」を遂げます。1969年でした。

毛沢東はさすがにこの林彪事件にはショックを受け、路線の変更を行います。この結果1973年には登(ケ)小平が復帰(1975主席)。文革は事実上終りました。

しかし林彪事件のあと、毛沢東は急に老け込んでしまったといわれます。

やはり彼はあくまで「革命家」であったのでしょう。

1976年9月9日死去。

なお、登(ケ)小平はこの1976年4月に天安門事件のため、再失脚しますが、毛死後1月もたたない10月6日、華国鋒が四人組をだまし撃ちにして逮捕。文化大革命を完全に終結させたことにより翌1977年2月22日副主席に再復帰しました。このため日本では彼を受験の守り神とみなす人もあるようです。

※「ケ」は一部の機種では見えないため、慣習に従って「登」で代用し、 ケ は括弧書きにさせていただきました。


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