一説によると『史記』の著者・司馬遷(シーマー・チェン)はBC80年の11月6日に亡くなったとされています。(BC86年没という説もある)
夏陽の生まれ。子供の頃は農耕や牧畜の手伝いをしており、20歳頃に中国のあちこちを回る大旅行をして見聞を広めます。父が歴史の編纂をする太史令という職に任官されて一緒に都に移りますが、その大旅行の経験が買われて遷自身も郎中(官僚見習)に任官。更に今度は時の皇帝・武(ウー)帝の命であちこちを回ることになります。
父の司馬談は中国のこれまでの歴史をまとめる仕事をしていました。それまで中国に正規の歴史書というものは存在しておらず、これはたいへんな事業でしたが、道半ばにして談は亡くなります。すると遷はその後任に任命されやがて、それまで集められた資料を元に、BC104年、大著『史記』の執筆に取りかかるのです。
ところがここで事件が起きます。BC98年のことでした。当時漢は北方の遊牧民族と激しい戦いを繰り広げていましたが、そうした中、将軍の李陵が奮戦しながらも敵の捕虜になってしまいます。捕虜になったことに怒った武帝は御前会議において、李陵に死刑を宣告する(むろん帰ってきたら)と発言。居並ぶ重臣たちはびくびくしながら畏まっていました。
ところがここで、司馬遷が死刑はひどすぎるといって李陵を弁護しました。司馬遷は特に李陵と親しかった訳ではないのですが、皇帝の命令は筋が通っていないと感じた彼独特の正義感がこうさせたのでしょう。
しかしすると、武帝は今度は司馬遷をギラリとにらみ「それでは李陵を死刑にする前に司馬遷を死刑にせよ」と言い放ちました。
あまりの言葉に青くなる司馬遷ですが、さすがにこれに対しては他の重臣たちが、武帝を取りなします。すると武帝は少し思い直して「では司馬遷は罪一等を減じて宮刑とする」と発言を訂正しまた。
説明の必要はないとは思いますが、宮刑とは男性の外性器を切除する刑です。むろん麻酔などは掛けません。古代には尿道がふさがってしまったり雑菌で炎症を起こしたりして、死亡率も高かったようです。女性の場合どうしたかについては諸説あります。一時期「女性は宮中に幽閉した」という説が流布していましたが、どうもこれは外れのようです。
ともかくも、かくして司馬遷は首の代わりに別の所をチョン切られてしまった訳です。後に司馬遷は宮刑の恥を思うと体中から油汗が出てくるほど悔しいといったようなことを記述しています。
武帝はある意味で寛容な君主であり、宮刑に処した後も司馬遷に今までの仕事を続けることを許しました。
かくして、全130巻という大著『史記』はBC90頃に仕上がります。ただこの時、一説では、司馬遷が書いた武帝に関する巻だけは武帝があまり気に入らず、破棄してしまったため、後代に別の資料から補充されたとも伝えられます。また、それ以外にも現在伝わっている『史記』は後世追加された部分があるようです。(つまり司馬遷が亡くなった後の時代に関する記述が存在する)
司馬遷が『史記』において確立した記述方式は「紀伝体」と呼ばれ、皇帝ごとの「本紀」と諸臣を記述した「列伝」、および年表などの諸表や文化史の記述、諸侯の事績などからなります。『史記』が中国で最初の正史である訳ですが、後の中国の正史は全て基本的にこのパターンを踏襲しました。
【史記の構成】
本紀 12編 五帝本紀 夏本紀 殷本紀 周本紀 秦本紀 始皇本紀 項羽本紀 高祖本紀 呂后本紀 孝文本紀 孝景本紀 孝武本紀
列伝 70編 伯夷列伝 老子韓非列伝 太子公自序 など。
世家 30編 呉太伯世家 斉太公世家 魯周公世家 孔子世家 など。
書 8編 礼書 楽書 律書 歴書 天官書 封禅書 河渠書 平準書
表 10編 三代世表 十二諸侯年表 六国年表 秦楚之際月表 漢興以来諸侯王年表 高祖功臣侯者年表 恵景間侯者年表 建元以来侯者年表 建元巳来王子侯者年表 漢興以来将相名臣年表