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ソ連クーデター失敗(1991)
1991年8月18日17:10。ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)のゴルバチョフ大 統領は休暇でクリミアにおり、現行のソ連を解体してもっと緩やかな国家連合 に移行するという重大な法案の作成作業をしていましたが、そこに急な来客が ありました。ゴルバチョフが「そんな予定はなかった筈だが何故入れたのだ」 と警護官に訪ねますと、KGB局長が一緒だったのでと答えます。ただならぬ 事態が起きていることを感じた大統領はすぐ電話をかけようとしますが全ての 回線が切断されていました。ほどなく訪問者たちは大統領の部屋に勝手に踏み 込んできました。 翌19日、午前4時。ヤナーエフ副大統領ら8人の「国家非常事態委員会」が記者 会見。ゴルバチョフ大統領が病気のため執務不能になり、代わってヤナーエフ 副大統領が大統領代行に就任した旨の発表をし、非常事態宣言を発令しました。 これに対してソ連の中の最大の国であるロシア共和国のエリツィン大統領は非 常事態委員会を認めることはできないとし、ゴルバチョフ大統領の健康診断を 要求。またいち早くアメリカのブッシュ大統領もこのクーデター政府を承認せ ず、ゴルバチョフ氏とエリツィン大統領を支持する旨の声明を出しました。 (日本の海部首相はこのクーデターの期間中、G7諸国と共同歩調をとって、 などという訳の分からない優柔不断な態度をとり続けました。アメリカに続い てイギリスやフランスもいち早くゴルバチョフ支持を打ち出したのとは対照的 です) 同日午後1時、エリツィン大統領がロシア共和国庁舎前で抵抗を呼びかけるメ ッセージを読み上げますと大勢の市民がそれに賛同の声を上げます。非常事態 委員会は戦車を差し向けますが市民たちはバリケードを作って戦車の進入をく い止めました。この時モスクワ放送はクーデター側に占拠されていましたが、 民間の「エコー・モスクワ」は公正な報道を続けます。やがて一部の若手将校 に率いられた数台の戦車が市民側に合流して戦車同士のにらみ合いになりました。 20日にはこのクーデターに反対する労働者のストライキが全国で発生、また市 民のデモも多発し、一部では流血の事態になります。モスクワでも放送や口コ ミでロシア共和国庁舎前には続々と市民が集結、その人数は15万人に達します。 そして21日早朝。クーデター側の戦車が強引にバリケード突破を試みます。こ れに対してロシア共和国側も守備部隊に発砲許可を出しました。衝突は断続的 に1時間半ほど続き、市民側に十数人の死者が出ますが、クーデター側の戦車 も2台破損。結局戦車隊は目的を果たせず引き上げます。そしてロシア側の代 議士がモスクワ軍司令官と交渉、軍は当面事態を静観する確約を取り付けました。 こうしている間に非常事態委員会側も足並みが乱れ始めます。一部のメンバー が辞任を表明、大統領代行に祭り上げられたヤナーエフ副大統領も不安から酒 びたりになって執務不能状態に陥ります。そして突如この日の午後2時、非常 事態委員会のメンバーがモスクワ脱出を始めました。エリツィン大統領は彼ら を拘束するよう指令を出す一方、軟禁されていたゴルバチョフ氏を救出するた め、シラーエフ首相を急ぎクリミアに派遣しました。事態は完全に逆転しまし た。モスクワ放送も午後9時頃には本来の報道に戻りました。 22日午前2時、ゴルバチョフ大統領はモスクワに戻りベススメルトヌイフ外相 と固い握手を交わします。ゴルバチョフ大統領に付き添っていたクリュチコフ KGB議長はその場で逮捕。クーデターに関与した他のメンバーも次々と逮捕 されてクーデターは終了しました。 同日正午過ぎ。ロシア共和国庁舎前に集まった20万人の民衆の前でエリツィン 大統領は勝利宣言をしました。しかしそこに姿を現すべきであったゴルバチョ フの姿はなく、ゴルバチョフは夕方プレスセンターで記者会見しただけでした。 この事はゴルバチョフの政治生命がクーデター失敗にも関わらず尽きたことを 象徴的に如実に表していました。 ゴルバチョフ大統領は24日ソ連共産党の解体を発表、26日には懸案であったバ ルト三国(リトアニア・ラトビア・エストニア)の独立を容認、ほどなくアル メニアやグルジアでも独立の動きが高まります。12月にはロシアに次ぐ連邦内 の大国ウクライナもソ連からの独立を表明、ゴルバチョフも大統領辞任を了承 して、12月26日「ソビエト社会主義共和国連邦」は消滅しました。 しかしこのクーデターが万が一にも成功していたら既に命数が尽きていたソ連 の解体にはもっと多大の血が流される結果になったことは間違いなく、ゴルバ チョフ氏はやはり止まっていた歴史の歯車をきちんと回転させ、世界の平和に 貢献し、ソ連の国民に生きる希望を与えた偉大な政治家でした。彼がこんなに 早く政治の表舞台を去ることを予測していた人は少なかったでしょうが、引き 際を誤って下手すると国賊になってしまう政治家も多い中、やはり彼は20世紀 を代表する優秀な政治家であったといえると思います。
Dropped down from 今日は何の日.