グダニスクのスト(1980)

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1980年8月14日、ポーランドのグダニスクで、造船労働者1万6千人のストライキが始まりました。その時、これが大きな歴史の流れの1ページを飾ることになるとは、このストライキを始めた労働者をはじめとして誰もが予想しなかったことでしょう。

このストライキの背景には深刻な食糧不足によりやむを得ずこの年実施された食肉の値上げがあります。そして多くの人々の予想を越えてこのストライキは長期間継続。やがて、運動の中から『自主管理』労働組合「連帯」が産まれました。その委員長に選ばれたのは、そのグダニスク造船所の溶接工、レフ・ワレサでした。

そもそも共産主義というのは、労働者が自ら生産手段を掌握して経済活動を行う社会であり、本来なら資本家と交渉するための組織である労働組合というのは必要ないはずです。しかし、多くの「社会主義」を名乗る国家群では、実際問題として政府が勝手に決めた計画に沿って生産が行われるという硬直した経済が行われ、このため実際の労働者の意志は経済活動に全く反映されず、多くの人々が労働意欲を失っているという状態に陥っていました。

その中で、そういった硬直した政府と交渉して労働者の権利を守ろうとする「連帯」の運動というのは、たいへん勇気のあるものであり、またポーランドの労働者の意欲というものを感じます。

当局はこの連帯と時に対決し時に妥協しながら政局運営を行いますが、だれもうまく行かずに次々とトップが交替。やがて翌1981年2月、もう彼でダメならもう後がいないと誰もが思ったウォイチェフ・ヤルゼルスキー国防相が首相の座に付きます。ヤルゼルスキーは連帯とねばり強く交渉を続ける一方で、「プラハの春」のようなソ連の介入を防止するために国内に戒厳令を施行。一部の反発を受けながらも事態の沈静化に務めました。

1983年ワレサにノーベル平和賞。これはワレサとともに全てのポーランド国民に対して与えられたものといってもいいでしょう。ポーランドはその後少しずつ民主化が進行。やがて1989年社会主義政権下としては初めての自由選挙が実施。連帯が勝利してマゾビエツキが首相。ヤルゼルスキーは新設の大統領に移ります。そして1990年にはワレサ自身が大統領に就任しました。

ポーランドは約1000年の歴史を持つ国ですが、東はロシア、西はプロシア(ドイツ)、南はオーストリア、という大国に囲まれ、度々領土を侵されてきました。現在の国境も本来のポーランドの領土の一部をソビエト時代のロシアが強権をちらつかせて奪い取り、その「代りに」ドイツの領土を少し削り取って与えたものです。ただし現在のドイツ政府はその問題でポーランドに領土返還を要求することはしないとしています。むろん、ロシアは簡単にはポーランドに領土は返してはくれないでしょう。

(東西ドイツが統一された時に、元々ドイツ領だった時の地主がポーランド のその地区に戻ってきて現在の地権者に返還要求をするのではないか、と いう噂が立ち、軽いパニックが起きたことがあります。)

こういったポーランドの民主化運動の波はその他の多くの東欧諸国の人々に勇気を与え、時代は大きく動いていきます。1985年ゴルバチョフがソ連書記長に就任してペレストロイカ開始。1989年ベルリンの壁崩壊。1990年ドイツ統合。1991年ソ連崩壊。


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