SSK再建(1980頃)

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さて年末に坪内寿夫さんの死去のニュースが飛び込んで来ました。坪内さんが佐世保重工業(SSK)の再建に乗り出したころ、私は佐世保に住んでいました。

その少し前まで佐世保はSSK城下町と言われていました。SSKの社員というのは、ものすごく市内で信用があり、地元の高校でSSK社員を養成することを目的とした「造船科」という学科まで設けられていました。

しかし造船業は安価に船を造るアジア・アフリカの国との競争に負けて絶無の不況に突入してしまいます。普通ならSSKは倒産していたところですがそれを救ったのが「原子力船むつ」の修理を請け負う代わりに多額の補償を国から引き出したことと、この坪内氏を招いたことでした。

坪内社長のもとでのSSKのリストラはまさに凄惨といっていいほどでした。当時「残るも地獄、出るも地獄」といわれました。会社に残った人は給料が従来の半分から、どうかすると5分の1くらいになり、出向させられた人は今まで経験もしたことのない仕事に必死になりました。

佐世保は自衛隊基地のある町でもありますが、好景気の頃のSSKは自衛隊の船の修理など、いっさい受けていませんでした。利益率が低かったからです。しかし坪内政権下では当然それも取りに行きましたし、船だけでなく、地元のちょっとした土木工事のようなものまで受注していました。

今まで最も信用のあったSSKの社員に対して地元の商店街は一切のローンでの支払いを認めなくなりました。「造船科」に学んだ高校生たちは就職先を見つけることができませんでした。

しかしSSKという会社は生き残りました。

しかし今、ここまでして会社を生き残らせるほどの力を持つ経営者も、また得難くなっているように思います。


(1999.12.31)

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