小笠原返還(1968)

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昭和43年4月5日、日米間で小笠原返還協定の調印が行われました。これにより戦後アメリカに占領されていた小笠原諸島が22年ぶりに日本に返されることになりました(実際の返還は同年6月26日)。

太平洋戦争終了後アメリカは昭和21年1月9日の覚え書きで奄美・沖縄・小笠原において日本の行政権を停止することを宣言。これらの地域はアメリカの占領下に置かれました。これに対して日本の吉田茂首相は「奄美はあまり軍事的な意味はないだろうから返してくれ」と主張、1953年8月8日にアメリカはこれを受諾。同年12月25日に日本に返されました。しかし小笠原および沖縄は引き続きアメリカが実効支配を続けました。

その後この問題は長く膠着状態が続きますが、吉田の愛弟子・佐藤栄作は首相に就任するとアメリカとの友好関係を強める施策を進めるとともに、国内に小笠原・沖縄の返還に対する強い運動が起きており、返してもアメリカが軍事的に利用するのは構わないから、返してくれた方がアメリカにとっても良いのではないかと巧みにアメリカを説得。そして1967年のジョンソン・佐藤会談でその方向がほぼ合意に達し、まず1968年に小笠原、そして佐藤の任期終了直前の1972年に沖縄の返還にこぎつけます。いわば佐藤は吉田がやり残した、この問題をほぼその政権担当時間のほとんどを掛けてやり遂げたのでした。佐藤はソ連(現ロシア)との北方領土返還の交渉も進めていましたが、そちらを妥結させる前に首相の座から去ることとなり、その後こちらの交渉は30年間にわたって全く進行していません。

(以上の戦後領土返還交渉史の事実関係や背景については様々な説や意見もあります。上記はそのひとつの説とお考え下さい)

小笠原諸島は伊豆諸島(北緯32〜35度)・豆南諸島(30〜31度)の更に南、北緯27度付近に点在する島ですが、行政区域としての小笠原村の中には北緯24〜25度付近に点在する硫黄列島も含まれています。

【概略の配置】(等幅フォントで見て下さい)孀婦岩          中鳥島

              聟島西ノ島  父島母島北大東島南大東島      北硫黄島硫黄島沖大東島      南硫黄島       南鳥島

      沖鳥島

この小笠原には古くから太平洋の様々な人が訪れていた可能性がありますが、歴史的な記録に残っている最古は1543年にスペイン船サン=ホワン号が目撃したというものです。この島は恐らく硫黄列島と思われます。

その後文禄2年(1593)に信州出身の探検家・小笠原貞頼がここを探訪し、上陸して島の物産を持ち帰り、徳川家康に献上しています。小笠原諸島という名前はこの小笠原貞頼にちなんで付けられたものです。

その後、延宝3年(1675)に、幕府が調査隊を派遣し測量をおこなって地図を作製しましたが、この時に父島・母島などの名前が付けられたとされています。(実際の命名は200年後、後述の文久年間の水野開拓隊ではという説も有力)

しかしその後幕府はこの島々の運営を積極的には進めようとせず、その間にこの地区には欧米の船が次々に来航。1830年には5名の様々な国籍の西洋人を含むハワイ系の人々が来訪して入植を始めました。この人たちが小笠原の最も古い定住者ということになります。1853年に日本に来訪して開国を要求したペリーは小笠原についても調査し、ここを軍事占領してアメリカ領を宣言したいと考えていましたが、占領について大統領の許可が下りず、調査だけして帰国しています。

しかしペリーがここを調査したということが日本に伝わると、幕府は慌てて文久元年(1861)12月、水野忠徳を責任者とする開拓隊を派遣し、住民達に古い地図を示してここは元々日本領であったと宣言します。これに対してアメリカやイギリスでも領有を宣言する動きがあったものの両者ともこの島々の経営には消極的で、結局この日本のやや強引な領有宣言は国際的に承認されてしまいます。以来、この島ではハワイ−欧米系の住民と、この時期以降、日本本土から開拓のために移住した住民とが、比較的穏和に共存してきたようです。

日本は更に明治24年に硫黄列島を領有、明治31年には南鳥島も小笠原島庁に組み込みました。この時アメリカ人のRosehillという人が日本の領有宣言と前後して南鳥島の占有を試みますが、日本はただちに軍艦を派遣してそれを阻止。この後日米の協議により、アメリカはこの島も日本領と認めました。沖鳥島の領有宣言はこれよりずっと後の昭和6年になります。

太平洋戦争が激しくなると日本は小笠原の住民に本土に避難するよう要請。昭和19年に強制疎開となります。後のブッシュ大統領(現ブッシュ大統領の父)がこの時の小笠原攻防戦に参加して対空砲火で撃墜される経験をしています。

やがて終戦になった後、GHQは欧米系の島民にだけ帰島を許可し、その後ずっとアメリカの基地として小笠原を使用。しかしその後の外交努力により1968年返還がなって、日本系の住民も20年ぶりに帰島することができました。その後更にこの島に興味を持って移住して来た人たちもあり、小笠原は様々な文化の交流の中で、琉球(沖縄&台湾)とは別の意味で文化のクロスロードとなっています。

なお小笠原諸島の主な島の名前は下記の通りです。

 聟島列島(北緯27度30〜40分 東経142度8〜13分)聟(むこ)島・鳥島(A)・北之島・中ノ島・笹魚島・媒(なこうど)島・鳥島(B)・針ノ岩・蛸岩・眼鏡岩・嫁(よめ)島・前島・後島父島列島(北緯27度0〜12分 東経142度9〜14分)父島・南島・巽島・東島・烏帽子岩・中通島・兄島・西島・瓢箪島・人丸島弟島・孫島・弁天岩・北磯母島列島(北緯26度32〜42分 東経142度8〜14分)母島・向島・鬼岩・鰹鳥島・中鰹鳥島・小鰹鳥島・丸島・二子島・平島姉島・北鳥島・南鳥島・ローソク岩・二本岩・三本岩妹島・鳥島(C)・野羊島・鍋岩・姪島・鳥島(D)・四本岩

 西ノ島(27N15 140E52)西ノ島・(西ノ島新島−1973年火山活動により生成,翌年西ノ島と結合)

 硫黄列島(火山列島)北硫黄島(25N25)・硫黄島(24N45)・南硫黄島(24N15)

 その他南鳥島(24N18 153E59 日本最東端 アメリカはマーカス島と呼んでいた)沖鳥島(20N25 136E04 日本最南端)中鳥島(30N05 154E10 幻の日本最東端....現在多くの地図からは抹消)


(2004-04-04)

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