1970年11月25日、作家の三島由紀夫が、自ら主宰する楯の会のメンバー4名を率いて市谷の陸上自衛隊駐屯地、東部方面総監部に押し入りました。三島らは制止しようとする自衛隊員らと格闘、七名の自衛隊員に重軽傷を負わせた上で総監を監禁。そして1号館バルコニーで国の現状を憂い、自衛隊隊員たちに決起を訴える演説をします。そして午後0時15分頃、三島は楯の会学生長森田必勝に介錯されて割腹自殺しました(直後森田も割腹自殺)。
『アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは白明である。あと二年の内に自主性を回復せねば自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう/今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる/もしおれば今からでも共に起ち共に死のう』
私はこの事件をテレビの画面を通してリアルタイムで見ていました。そして、素人にやすやすと侵入された自衛隊の体制に大いに疑問と不安を抱いたものです。大阪万博・よど号ハイジャック事件・などこの年は日本が「戦後」の呪縛から解かれて新しい時代に入った転換の年であったように思います。この年佐藤栄作首相が4選。当時の防衛庁長官は中曽根康弘氏でした。
楯の会は1966年頃、三島が早朝マラソンで知り合った学生たちとともに結成したものです。正式発足は68年10月。彼らはその後何度も自衛隊に体験入隊をし、また空手・居合いなどの訓練を続けていました。国を憂う人たちは多かったでしょうが、三島らは急ぎすぎたのでしょうか。私は三島の行動を狂気とは思いませんが、軍隊を動かして物事を変えようとする方法論には疑問があります。三島は作家という立場上、軍ではなく民を動かす力を持っていたのに、なぜその方法を放棄したのか、残念でなりません。
三島由紀夫は大正14年(1925)1月14日東京に生まれました。学習院高等科を経て東京帝大に入学。在学中に処女作品集『花ざかりの森』を発表。これは順調な売れ行きをあげて、作家としてさい先のいいスタートを切りました。
戦後川端康成・太宰治らと親交しながら精力的に作品を発表し続けます。大学卒業後は大蔵省に入りますがこれはさすがに作家活動との両立ができずまもなく辞職。作家一本で生きていくことになりました。
昭和24年『仮面の告白』を発表して世間に衝撃を与え、昭和29年には牧歌的な『潮騒』で別のファン層を開拓、昭和31年の『金閣寺』で円熟の極みを見せつけます。
そして昭和41年には二二六事件に取材した『英霊の声』を世に問い、同じ頃、昭和40年から『豊饒の海』を連載開始、この最終完結原稿は自衛隊突入の日、昭和45年11月25日当日に新潮社に渡されました。
『庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている』