1958年(昭和33年)9月7日、西武新宿線下り電車が狭山市のジョンソン基地(当時)の近くを走行中、突然基地の中から銃撃され、乗客の武蔵野音大生・宮村祥之さん(当時21歳)に当たりました。列車は緊急停車して宮村さんはすぐに病院に運ばれましたが死亡が確認されました。
明らかに基地内からの狙撃ということで、米軍の憲兵隊が基地内で捜査したところ、米空軍のピータ・ロングプリー3等空士(当時19歳)が発砲したものと判明し、いったん米軍側で身柄を拘束し取り調べられます。ロングプリーは空砲で射撃の練習をしていたが、実弾が入っていることに気づかなかったと供述。しかし練習で電車に向けて撃ったというのは道理が通らないため結局「公務外の事件」として、日本側で裁判に付されることになります。
浦和地裁での裁判の結果、重過失致死罪で禁固10ヶ月の判決。被告側が上訴権を放棄したため、これで刑が確定しました。
きわめて軽い判決ですが、当時の日米関係の下ではこれが限界だったともいえるでしょう。とはいっても当時と現在とで、そのあたりの状況がどのくらい変わったかというと、さほど変わっていない気もしないではありません。
アメリカ兵による日本国内での凶悪犯罪は戦後の米軍占領時代からずっと続いており、前年には群馬県の演習場で米兵が近くにいた主婦に声を掛けて呼び寄せた上で射殺するという「ジラード事件」も起きています。犯人は前橋地裁で、傷害致死で懲役3年執行猶予4年の判決を受け帰国。(本来ならどうみても殺人罪)
相次ぐ事件にロングプリー事件の際にはさすがの米軍側も恐縮し、司令官が被害者の葬儀に来て、遺族の上京費用から葬儀の費用まで全て出し、また基地内でカンパをして見舞金を渡すなどの対応を取っています。また日本は米軍に対して厳重に抗議し再発防止策をとるよう申し入れています。
ただ近年のイラクにおける米兵の強姦一家殺害事件などを見ていても、米兵のモラルは基本的に低いといわざるを得ません。戦場という異常な場でのストレスが若い兵士の心を歪ませてしまうのでしょうが、それだけにしっかりとした管理をしてもらわないと困ります。
ただこの時期は朝鮮戦争(1950-1953)は既に停戦しておりベトナム戦争(1960-1975)はまだ始まっていなくて、狭間の時期です。そういう時期ではあっても、当時はまだアメリカは徴兵制でそもそも意欲の低い兵士が多かったことに加え、根本的に「占領国」に対する米兵個々の差別意識、というより、そこの住民を人間と思っていない意識が背景にはあるというのが多くの人の指摘する所です。
日米地位協定は現在でも不平等条約で、アメリカ側に捜査の優先権があります。このため戦後間もない頃に基地のある町では、米兵と日本人とのトラブルがあった場合、日本の警察とアメリカの憲兵隊とどちらが先に到着するかというのが競争で、地域の住民の有志の活動などもあり、できるだけ憲兵隊の車の通行を妨害し、日本の警察にできるだけ道を開けるということをやっていたそうです。
それでとりあえず日本の警察が先に取り調べることができれば、日米地位協定によってすぐに身柄をアメリカ側に渡すことになっても、最初から向こうにあるのよりは、少しでもまともな捜査ができるというわけです。