金大中事件(1973)

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1973年8月8日、来日中の韓国の元大統領候補・金大日(キム・デジュン)氏が何者かによりホテルから拉致され、5日後、韓国の自宅前で発見されました。

当時韓国は朴正煕(パク・チュンヒ)の事実上の独裁政権の下。金氏は戒厳令が施行されている国内を避けて日本とアメリカを舞台に民主化運動を行っていました。

現場に在日韓国大使館の金東雲一等書記官(事件後解雇・その後行方不明)の指紋が残されていたことから、事件はKCIA(韓国中央情報部)によるものと思われましたが、韓国政府はこれは韓国国内の問題であるとして日本の捜査当局からの調査依頼を一切拒否。同年11月2日金鍾泌首相が来日して日本の田中首相と会談。日本と韓国の政府間で、金大中氏の今後の身の安全を韓国政府が保証することを条件に、これ以上の事件究明は行わないという政治決着が行われました。

事件の真実について語る前に韓国の歴史を確認しておく必要があるでしょう。

1945年に朝鮮半島を軍事占領していた日本が太平洋戦争に負けた直後北方からソ連軍が進駐、対抗してアメリカ軍も南方から朝鮮半島に展開しました。

アメリカとソ連はモスクワやソウルで何度も話し合いを続けますが両者譲らず、結局1948年、日本軍に代わって北側をソ連に南側をアメリカに占領されたまま、北に朝鮮民主氏主義人民共和国(以下北朝鮮)、南に大韓民国(以下韓国)が成立しました。

更に両者は1950年から1953年まで朝鮮戦争を行い、この時期両者の国境は何度も上下しますが、結局38度線を休戦ラインとして休戦協定が成立しました。従って現在でも両国は実は戦争状態が終了していません。(それは日本とロシアなども同様ですが)

大韓民国成立当時から大統領の地位にあったのが李承晩。しかし1960年3月に大統領に3選した時、選挙に不正があったのではないかという学生中心のデモが全国に拡大。李大統領は4月19日戒厳令を出して抵抗しますが、結局27日辞任。ハワイに亡命しました。

このあと尹大統領・張首相による政権が一時的に成立しますが混乱は続き、これが1961年5月16日の朴正煕少将らによる軍事クーデターを引き起こします。

朴氏は最初国家再建最高会議議長に就任。新憲法を制定して1963年10月大統領に就任。このあと16年間にわたる長期政権を維持します。この間セマウル運動などの国内改革運動に取り組むとともに海外との交流も拡大し、「漢江の奇跡」と呼ばれた高度成長を実現しました。

1971年の大統領選挙では金大中氏と争い、これに勝利しますが、その直後、金氏が交通事故に遭い重傷を負う事件が発生。これが朴氏支持者によるものではないかと噂されます。その後金氏が国外にいる間に1972年反体制派を抑えるために戒厳令を施行。国内外の朴氏に対する批判は著しく高まりました。

1974年には朴大統領の講演の最中に在日韓国人の文世光が大統領を狙撃する事件が発生。この時弾丸はそれて、大統領夫人に命中。夫人は死亡しました。この夫人の葬儀は国葬として執り行われ「王様のつもりか?」という批判を更に受けることとなります。(文世光は裁判の上死刑判決。即執行。ただし文世光はダミーではないかとの説もある。彼は極度の近眼でありとても距離を置いての狙撃は不可能だったとか、文を会場に案内したのは大統領警護室のメンバーであったという証言も存在する)

反朴大統領の輪はどんどん広がっていき1979年10月26日、とうとう、夕食会の席で側近の金載圭KCIA部長が大統領を射殺して朴政権は倒れました。(金部長は後日裁判の上死刑執行)

朴が倒れた後、崔圭夏首相が大統領代行に就任して事態の収拾に務めますがおさまらず、結局同年12月12日全斗煥(チョン・ドファン)少将らが戒厳司令官らを拘束して粛軍クーデターを実行。この全斗煥に支援されて、やっと崔氏は正式に大統領に就任するとともに政治活動の自由化や改憲作業にとりかかることができました。(ソウルの春)

しかし翌1980年3月再び学生デモが広がり国内がまた混乱の渦に巻き込まれます。やむを得ず軍部は学生運動指導者や金大中・金鍾泌らの有力政治家を拘束して政治活動禁止・大学休校などの措置をとります。これに反発した学生や市民らが光州市で大規模な抗議行動をとると軍は部隊を投入。多数の死傷者が出ました。(光州事件)

結局1980年9月全斗煥は自ら大統領に就任。強権による統制のもとで少しずつ民主化を実行する方策を採ります。ここに来てやっと韓国国内は落ち着きを回復し始めました。

光州事件に関しては金大中氏が暴動の実質的な首謀者ではないのかとの一部の意見にもとづき逮捕され死刑判決が出ますが、全斗煥は恩赦により無期懲役に減刑するという、強硬派・民主派の双方に配慮したギリギリの選択を行います。なお、光州事件の関係者はソウル五輪を控えた1987年全員赦免されました。そしてこの1987年、全斗煥は大統領を退いて民主正義党の盧泰愚(ノ・テウ)が新しい大統領になります。

なお、大統領を退いた全斗煥は盧泰愚の次の金泳三政権になってから今度は逆に光州事件に軍隊投入をしたこと自体が国民に対する暴力ではないかと追求され一転して裁判の被告側に立つことになります。この裁判も死刑判決が出ましたが、大統領による特別赦免で釈放されています。全氏は夫人とともに山寺に隠棲しています。

金泳三政権(1993-1997)のあとは、問題の金大中氏が大統領に就任しています。大統領の任期は2002年までです。

金大中氏は1924年1月6日韓国南西部の小さな島・荷衣島で農家の二男として生まれました。(公式には1925年12月3日生となっているがこれは父親が息子の徴兵の時期を少しでも遅らせるために遅れて出生届を出したため)木浦商業高校を経て、船会社の経営をしていましたが政界入りを目指して何度か国会に挑戦、1961年の補欠選挙で国会議員に初当選しました。

たちまち頭角をあらわし、金泳三らとともに野党新民党のリーダーとして活躍するようになります。

1971年大統領選挙に出馬しますが、朴正煕634万票に対して540万票と善戦するものの落選。しかしこの善戦は国内の多くの民主化運動の活動家たちを勇気づけました。それに脅威を覚えたKCIAは同年、金氏を交通事故に装って殺害を試みますが失敗。しかし金氏は関節を痛め座布団無しでは椅子に座れない体になりました。

しかし金氏はその後も日本やアメリカの同胞たちを訪れて外からの支援も依頼しつつ、民主化運動を続けます。しかし国外にいた1972年10月朴政権は非常戒厳令を発布。金氏は韓国に帰りづらい状況に陥りました。

そこで起きたのが金大中事件でした。

1973年8月8日23:19。東京ホテル・グランドパレス2212号室。部屋の外に出た金大中氏は6人の屈強な男に拉致され、2210号室に連れ込まれました。6人は金氏に麻酔薬をしみこませたハンカチを鼻にあて、意識がもうろうとした所で地下駐車場に待機していた車に運び込みます。

一行は金氏を後部座席の床に押しつけたまま高速道路を通って大阪に向い、いったん大阪の韓国総領事館の宿舎に運び込みます。工作員たちは金氏をあらためてロープできつく縛り直し、鼻をのぞく顔全体にテープを貼ります。そして大阪埠頭に運んで、黒いビニール袋に入れて一般の貨物船竜金号に積み込みました。

竜金号は翌朝8月9日午前8:45大阪埠頭を出港。

当時の船員らはそのビニール袋に入っているのが人間だとは思ったが、お上のすることなので何も言えなかったと後に証言しています。彼らは船中で日本のラジオ放送を聞いて、その中身が金大中氏であることに気づき大いに驚いたといいます。

船は瀬戸内海を通って10日の朝9:54には関門海峡を通過。韓国に向かいました。そして予定では金氏を朝鮮海峡の海の中に沈めることになっていたといいます。しかし金氏におもりを付け、甲板まで引き出した所で、なぜかこの作業は中止されてしまいました。

KCIAの動きを察知したアメリカのCIAが緊急にこの件を日本の公安当局にも伝えるとともに、KCIAに対しても「もし金氏を殺害したらただではおかない」と強く警告。そして日米の意志が固いことを実感させるため、近くの自衛隊基地から戦闘機を緊急発進させ、船に対しても直接警告したため。。。。。

というのが一般に言われている説です。当初は米軍機を使ったとも言われましたが、実際には両国の意向であることを強調するため自衛隊機を使用したとも言われています。

ただこの説には欠点もあり、ほんとうに金氏を殺害するつもりならこの件の責任者が船に同乗していたはずなのに、実際は乗っていなかったという問題です。一国の運命を左右する重要な処理を下っ端の工作員任せにしてしまうというのはあまり考えられないことなので、最初からただ韓国に連れて行くだけの目的ではなかったかとも言われます。しかしただ連れて行くだけの為にこんな大騒動を起こすのもまた解せないところです。

結局竜金号は11日の深夜に釜山港に到着。12日朝7時に接岸。今度は待機していた救急車に金氏を移し、釜山からソウルまで直行しました。そしてソウル市内のアジトでしばらく時間を取ってから、13日夜、金氏を自宅前に置き去りにして工作員たちは逃走しました。

金氏はこの件を韓国の警察にも訴えますが、警察の捜査は何の成果もあげられず、1974年8月14日に捜査を実質的に終了しています。

事件後金氏はソウルの春に至るまで自宅で軟禁生活。やっと朴政権が倒れたと思うと1980年の光州事件で内乱陰謀罪に問われ1981死刑判決、恩赦で無期懲役に減刑。1982年刑の執行停止。このあと1983〜1985年にはアメリカに滞在しました。

1987年の大統領選挙に立候補しますが盧泰愚氏に敗れ、更に1992年には長年の盟友であった金泳三氏に敗れ、このあと一時期政界を引退します。

しかし1995年カムバックして、かつての敵・金鍾泌と大胆な同盟を結んで1997年の大統領選挙で初当選を果たしました。

韓国の大統領はかつての独裁政権の反省から再選が禁止されているので2003年には金大中氏は政界を引退するものと思われます。その時には彼は79歳になっています。最初に大統領に立候補した時は47歳でした。


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