浅間山荘事件(1972)

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昭和30年代ころから、日本ではベトナム反戦などを契機に各地で学生運動が自然発生的に起きました。その中で指導的な役割を果たしたのは共産党系の学生運動団体「民青」ですが、その「民青」の活動を生ぬるいと考えた過激な活動家たちはそこを飛び出して「新左翼」と呼ばれる一連の組織を作りました。

それらは活動を通じて路線や活動方針の対立から更に細かく分かれていきました。中にはほんの5〜6人しかメンバのいないグループなどもできたりしていたようです。

やがて彼らの中でも比較的穏和な路線を進む人たちは反帝学評(革労協)・第四インターなどのセクトにまとまっていきますが、過激な路線を進む人たちは中革・革マルなどを組織し、やがて最高に過激なセクト、連合赤軍が誕生します。

これら「過激派」と呼ばれた人たちはしばしば対立セクトにヤクザまがいの襲撃を行い、これは「内ゲバ」と呼ばれました。本来なら体制打倒に使われるはずの彼らのゲバルト(暴力)が一般から見れば内側の学生運動組織同士に対して用いられたからです。

しかし連合赤軍の場合、その暴力は他のセクトのみならず、自分達の仲間同士にまで向けられていました。この連合赤軍の一連の事件の頂点ともいうべき浅間山荘事件の後、彼らのアジトからは多数の遺体が出てきました。自己批判を強いられ、激しいリンチを仲間から受けて死亡した赤軍メンバーのものでした。彼らは自分がやるかやられるかという極限状態の中で活動を続け、その死と隣り合わせの恐怖の中で一連の事件を起こして行きます。

まず最初は 1970年3月。日航機よど号が赤軍派9名によりハイジャックされました。日本航空史上初めてのハイジャック事件でした。結局彼らは乗客の身代わりを買って出た山村新治郎政務次官を乗せて北朝鮮に亡命します。(この山村氏は後に予算委員長や運輸大臣なども務めますが1992年に自宅で次女に刺殺されました)

そして、この浅間山荘事件が起きたのは1972年の今日2.19。

管理人の奥さんを人質にメンバー5人がこれから10日間にわたって立てこもります。そして警察との激しい銃撃戦の末全員逮捕。人質も無事解放されましたがこの銃撃戦で警察官2名が殉職しました。

この浅間山荘事件は日本の左翼系学生運動の終わりを意味しました。

つまりこの事件によって、国民がもう左翼系学生運動自体を支持しなくなってしまったのです。更に74年の東アジア反日武装戦線(狼グループ)による企業爆破事件が起きるとその傾向はもっと決定的になります。

それまでは一般の学生も積極的にデモ等に参加していたのに、これらの事件を境に表面上政治に無関心を装う「ノンポリ」の学生が増えて行きます。そして日本の社会主義運動自体が衰退の道をたどり始め、代わって都市部を中心に「無党派層」が増えていくのです。

浅間山荘事件というのはそういう意味で戦後の日本の政治環境における非常に重要な転換点でした。

一方の後連合赤軍は活動の拠点を海外に移します。

1972年 5月 テルアビブ空港乱射事件。24人を無差別に殺害。 1973年 7月 パリ発東京行きの航空機をハイジャック。リビアで乗客を降 ろした後機体爆破。 1974年 1月 シンガポールの石油精製所爆破。 1974年 9月 オランダのフランス大使館占拠(ハーグ事件)フランス政府 は超法規措置で逮捕していたメンバーを釈放。 1975年 8月 クアラルンプールの米・スウェーデン両大使館を占拠する。 (クアラルンプール事件)日本政府は超法規措置でメンバー 5人を釈放。 1977年 9月 ボンベイ離陸直後の日航機をハイジャック。(ダッカ事件) また日本政府は超法規措置でメンバーを含む6人を釈放。 (赤軍と無関係の人も含まれていたコマンドとして利用した かったものと思われる) 1988年 4月 イタリアのナポリでアメリカ士官の車を爆破(ナポリ事件)

しかしこの連合赤軍にせよ、その他の過激派にせよ、メンバーの高齢化、資金を提供する「シンパ」の先細りから近年は徐々に活動は弱くなってきています。そして80年代以降は逆に今まで警察もノーマークであった右翼の過激派が登場。朝日新聞襲撃事件などいくつかのテロ事件を起こしています。


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