賤ヶ岳の合戦(1583)

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天正11年(1583)4月21日、羽柴秀吉は賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を倒し、信長後継の最大のライバルを葬って天下人への道をまた1歩進めました。

さて歴史物にはぜひ欲しい系図からまず掲示しておきましょう。

   織田信秀|+−−−−−−−+|       |信長 浅井長政=お市=柴田勝家|+−+−−−−−−−+豊臣  | |       |秀吉=茶々 お初 佐治一成=お|         江===徳川秀忠|    木下秀勝=与 ||          +−−−−+−−+−−+秀          |    |  |  |頼=========千姫=本多 家光 忠長 和子=後水尾忠刻    |      天皇松平長七郎

この系図の下の方はまぁ、おまけです(^_^;

お市の方は最初浅井長政と結婚して二人の息子と三人の娘を設けますが、やがて浅井長政が織田信長に滅ぼされたため、娘たちを連れて織田家に戻ります。(息子二人は長政と運命を共にする)

そして織田信長が明智光秀に倒された後、信長の後継をめぐって家臣団が信長の長男の子秀信(当時3歳)を推す秀吉系と三男で神戸家に養子に行っていた信孝を推す勝家系に分かれた時、お市の方は草履取り上がりの秀吉より昔からの織田家の家臣である勝家を支持し、彼の元に嫁いで行きます。勝家はいったん越前の居城に戻り様子をうかがいました。

しかしそういう勝家を秀吉が放置する筈がありません。冬になって勝家の城が雪に閉ざされたころから活動開始、勝家系の周辺の城を次々と攻略し、それに対して勝家も雪の中兵を進めて琵琶湖付近で相対しました。

この時大垣の神戸信孝が動きます。秀吉はやむなく一部の兵を残したまま大垣へ向かいますが、勝家側はこの機会に賤ヶ岳の秀吉側の陣を奪取しようとします。この攻撃はいったんは成功するのですが、昔から行軍速度を誇る秀吉軍はすぐに引き返してきて、この地で激しい戦闘が開始されました。

この時、突然一応勝家側についていたはずの信長の重臣の一人前田利家は戦闘を放棄して加賀へ帰ってしまいます。これはこの時点では秀吉に味方すれば義理を欠き、勝家に味方すれば自分の家臣たちを路頭に迷わせることになると悩みに悩んだ末の利家のギリギリ一杯の行動であったと言われています。

しかし結果的には利家軍離脱のあと勝家軍は「賤ヶ岳七本槍」(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則)らの活躍で次々に打ち破られ、勝敗は決します。そして本来ならば逃げてよかったお市の方は憎き秀吉のもとへ行くことを嫌い、娘たち三人だけを脱出させてここで勝家とともに死んでいきます。

このあとのこの三姉妹の行動、特にお茶々(淀君)の行動は実は母お市の方の無念を晴らすため豊臣をつぶそうとする行動だったのではないか、という説もあるくらいです。


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