太田道潅は江戸城(現在の皇居)を作った人として有名です。
もっとも彼は大名ではなく関東管領上杉氏の家老でした。江戸城は当時上杉氏が対立していた下総の足利氏に対する防御のために上杉氏の命令で築いたものです。上杉氏はどこに作れとまでは命令しませんでしたが、太田道潅はこの地が守るにも攻めるにも非常に便利な土地であることを見出しここに城を作ることにしたのです。築城は康正2年(1456)〜3年に行なわれましたが、場所としては現在の皇居の本丸から北の丸にかけての付近が中心であったとのことです。
太田道潅は文武両道に優れた武将で、歌を読み兵法書を読む一方、配下の武士たちと一緒に毎日武術の鍛錬を行なっていました。しかし1467年に京都で応仁の乱が起きると、関東もきな臭くなってきます。
上杉家の内乱に乗じて足利側が上杉系の武将を煽動。寝返る者があったりして太田道潅はその平定のために大忙しになります。文明9年(1477)〜13年頃、彼はそれまでの一騎打ち方式ではなく足軽の突撃戦法を駆使して騒ぎを納めていきます。この結果人々は太田道潅を上杉家の救い主として高く評価、大変な人気となります。が、これが道潅の命を縮めることになりました。
太田道潅の人気に、その内主君を倒して関東の主になろうとするのではないかと上杉氏側は不安を抱きます。そこで文明18年(1486)7月26日、上杉定正は道潅を自らの城に招きますが、風呂をすすめその入浴中を襲って殺してしまいます。道潅は「これで上杉も終わりか」と無念の一言を吐いて死亡。
この後、関東は上杉、足利それぞれが分家内の争いを抱えながら泥沼の抗争を続け、やがて30年後登場した北条早雲に全て呑み込まれてしまいます。上杉一族はやがて分家の越後上杉を頼って落ちていきます。