長篠の戦い(1575)

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天正3年(1575)5月8日、武田と織田・徳川連合の最終決戦となる長篠の戦いの火蓋が切って落とされました。

戦国末期。そろそろ誰かが天下を統一してこの戦乱の世を終わらせるべきだという空気が強くなっていました。その時点でその最有力候補は名門中の名門・上杉家の一族で越後にある上杉謙信と甲斐にあって強力な軍事力を持つ武田信玄、そして東海の雄・今川義元などでした。

上杉と武田は何度か川中島で対決しますが決着はつかず、やがて互いに相手を牽制しつつも、上杉は北側ルートで、武田は南側ルートで各自上洛を目指すことになります。

先に動いたのは上杉でした。謙信は1559年に上洛に成功。本来の勢力地であった関東の管領の任を天皇から認められ、それを背景に関東方面を実質的支配下におき、いわば南北両側から武田をおびやかす形を取ります。

一方の武田は美濃ルートでは斎藤、東海ルートでは今川といったところがふさがっているので、なかなか思うように動けません。その内、今川が上洛の動きを見せますが、1560年、信じがたいことに尾張の小大名・織田信長に桶狭間で倒されるという番狂わせが生じます。ここで突如として、織田と、今川が倒れたことによって浮上した三河の松平という新興勢力が注目を集めるようになりました。この織田と松平は1562年軍事同盟を結び、無視できない勢力になります。(松平家康は1566年から源氏の末裔と称して徳川を名乗る)

1566年、織田の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が墨俣に一晩で城を築城。織田はここを拠点に斎藤を攻め、翌年岐阜を手中に収めます。そして1568年、織田信長は一連の戦勝を背景にしてもう見る影も無かった将軍家の生き残り・足利義昭を奉じて京に入り、これを15代将軍に就任させて諸大名に一歩先んじる地位を獲得しました。

こうなると武田も黙ってはいられなくなります。度々徳川に干渉した末1571年本格的に上洛を目指して兵を進めますが、その途中、信玄は陣中で病死してしまいます。軍はいったん甲斐に戻りました。そして、4年後今度は信玄の子勝頼が兵力を率いて、再び東海ルートで京を目指しました。

ここで主戦場になったのが、2年前に徳川家康が武田から奪い取っていた長篠城の近辺です。武田軍の本格的攻撃は4月下旬から始まり、5月8日に城自体に対する攻撃が始まりました。

武田の激しい攻撃に対して、長篠城を管理する奥平信昌は我慢に我慢を重ねて、持ちこたえます。その中、奥平の家臣の鳥居強右衛門は密かに城の包囲網を抜け出し、家康・信長のところに援軍を乞いに行きます。そして家康らからもうすぐそちらへ行けるという答えをもらうと喜んで城に戻ろうとするのですが、城に入る直前に武田の兵に捉えられてしまいました。

強右衛門は武田の陣中で磔にされますが、その時に大声で長篠城の味方に「もうすぐ援軍が到着するぞ!」と伝えました。これで長篠城の兵は一気に士気が高まり、さらに一週間持ちこたえることになるのです。

その翌日、信長は野田に布陣。呼応して武田は設楽原に陣取ります。そして3日後、家康の家臣酒井忠次が鳶ヶ巣山の方に回って武田に背後を取られないように備えた上で、21日早朝、武田軍と信長・家康連合軍が設楽原で激突しました。

この戦いで、信長は日本の軍事史上に残る、画期的な戦法を採用しました。

当時、ヨーロッパ渡来の鉄砲が各地の大名に非常に注目されていましたが、当時の鉄砲は当然単発。(リボルバーの発明は19世紀です)一度撃ってしまうと、次に発射できるまで非常に時間がかかるため、その間に剣で斬りつけられるとどうにもならないという問題がありました。

しかし信長は3000人の鉄砲隊を3組に分け、一組目が発射したら次の組の者が前に出てまた発射。そのあと今度は3組目が出てまた発射。ということを繰り返し、発射した組の者はすぐに後ろに下がってすぐ鉄砲を掃除し、また火薬を詰めて次の発射の準備をする、という方式を採用しました。これだと次から次へと弾が発射されるため、鉄砲が発射された後を狙って斬りつけるというやり方が効きません。

かくして、超強力を誇った武田の精鋭騎馬隊も、近代兵器の前になすすべもなく壊滅。武田勝頼は敗走。これで事実上軍事王国武田も滅びました。(最終的な滅亡は1582年天目山の合戦)

こうして、織田・徳川連合軍は強力なライバル武田を退けて、天下への道をまた一歩大きく踏み出したのです。


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