継体天皇21年(527)8月1日、九州で大和朝廷に従わない筑紫国造・磐井に対して討伐命令が出ました。物部麁鹿火(もののべのあらかい)が率いる大和の軍と九州を掌握していた磐井の軍は激しく戦いますが、現在の高良大社の立つ地、御井郡の戦いで大和側が勝ちました。これは古代で最期の大規模な地方反乱でこれを制圧した大和朝廷はこの後欽明・敏達・推古などの名君が出て日本としての国家組織を整備していきます。
大和朝廷の歴史はいわゆる「三輪王朝」の実質的創始者・崇神天皇に始まり、日本武(やまとたける)・神功皇后の二代によって大きく勢力範囲が広がります。神功皇后の子孫が「河内王朝」と呼ばれていますが、その中でも雄略天皇は非常にカリスマ性の高い天皇で、物部・大伴などの諸豪族も畏怖をもって彼に仕えていました。しかし雄略が偉大すぎたばかりにその後継者たちは見劣りし、やがてただ乱暴なだけの天皇武烈が出るに至っては、人々の心は天皇から離れ、この天皇は(恐らく)殺されてしまいます。
そして豪族の間では、その後の天皇を誰に継がせるかというのが問題になりました。最初丹波の国の倭彦王を擁立しようとしますが、倭彦王は大和朝廷の軍が迎えに行くと自分を討ちに来たのかと思いこんで逃げてしまいました。そこで仕方なく次の候補として北陸から東海に掛けて広い範囲に勢力を握っていた越前の男大迹(おとど)王の所へ行きました。男大迹王も大和朝廷の軍には驚きますが、彼は逃げたりはしないだけの肝っ玉がありました。
朝廷を代表して大伴金村が「あなたを次の天皇として擁立したい」といいますが、男大迹王はなかなかうんと言いません。自分が次の天皇の有力候補の一人であることは当然認識していたでしょうが、それ故に、ここでうっかり「よし、やりましょう」などと言えば「さては天皇の地位を狙う不届き者め」と言われて成敗される可能性もあると見てのことでした。しかし大伴金村としては本気で彼を次の天皇にしたいと思っていますから、男大迹王に親しい人に仲介を頼むなど誠意を尽くして説明、ようやく男大迹王も承知して、ここに継体天皇が誕生します。
継体天皇の皇位継承には当然異論のある豪族たちもいました。そのため彼はすぐに大和に入ることができず最初は河内で即位し、20年目(一書では7年目)にようやく大和に宮を移しています。また彼は即位した当時既に57歳で妻と大きな子供たちもいましたが、既存勢力との融合のため、先々代の天皇仁賢天皇の娘手白髪姫を皇后に迎えます。結果的にはこの手白髪姫が生んだ欽明天皇が、その後の皇統の祖となります。
さて大和に入ってやっと落ち着いたと思った時、九州で朝鮮に行こうとしていた大和朝廷の軍が筑紫国造の磐井に妨害されるという事件が起きました。継体天皇21年6月3日のことでした。
当時磐井は九州の少なくとも北半分くらいを自己の勢力範囲に納め、大和の方が必ずしも一枚岩でないこの時期を見計らって、もう大和朝廷とは切り離した独自の国を作ろうと考え始めていました。しかし、日本列島全体を完全に掌握しておきたいと同時に磐井のバックには朝鮮半島の新羅がおり、磐井を放置することは朝鮮に国土を奪われることになると見た大和朝廷はこれを絶対に潰さなければならないと考え、最強の兵力を動かすことのできる物部一族の麁鹿火が自ら将軍となって九州へ赴くことにしました。
8月1日、天皇の名で討伐命令が出され、大軍が動員されますが、磐井の力も非常に大きく苦戦が続きます。しかしとうとう11月11日、御井郡(みいのこおり)の戦いで、大和軍が勝利をおさめ、磐井は斬られて乱は終結しました。磐井の息子の葛子は領地を一部大和朝廷に寄進して帰順の意を表明して許されます。
(筑後国風土記では、この時磐井は豊前国まで逃げて行方不明になったとされています。そこで大和朝廷の軍は腹いせに、磐井が生前作っていた自分の墓−岩戸山古墳−の回りに立っている石像の手や頭を叩き割ったりしたといいます。その祟りで付近で病気になる者が多かったとも記されています。)
この磐井が生前作っていた墓とされる八女市の岩戸山古墳は墳丘長が138mという巨大な前方後円墳で、多数の石人・石馬などが回りを取り囲み壮大な作りになっています。非常にユニークな古墳ですので一見の価値があるのではないかと思います。