仏教伝来(538?)

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仏教公式伝来の年に関しては、幾つかの問題点があり、歴史学者の中でも色々な論争が行われています。

日本書紀の欽明天皇の巻では、先に述べたように欽明天皇13年に伝来したとある訳ですが、欽明天皇元年は庚申と書いてありますから、庚申の年は540年なので、これは552年ということになります。

ところが「上宮聖徳法王帝説」では聖明王が仏像を贈って来たのは欽明天皇の御世の戊午の年であるとしています。欽明天皇の代は32年までなので、欽明天皇の在位は540〜571年ということになりますが、困ったことに戊午の年は538年と598年です。年代的に598年はあり得ないので、538年と考えられることになり、ここで538年を仏教公伝の年としている本も多くあります。しかしこの538年はまだ宣化天皇の時代です。

さらに元興寺の「伽藍縁起并流記資材帳」にも仏教伝来は「欽明天皇七年戊午年」と書いてあります。戊午の年の538年が欽明天皇の七年であれば、欽明天皇は532年に即位したことになりますが、これはまだ継体天皇の時代になります。

ところでここにもうひとつ、日本書紀の継体天皇の巻の最後に引用されている百済本記では、辛亥の年に日本の天皇と皇太子がともに死んだという記事があり、ここで浮上して来たのが内乱説です。

これは喜田貞吉氏・林屋辰三郎らの説でこれには「辛亥の変」という名前まで付いています。その要点は

 ・上記の各文書の記事の矛盾からみて、欽明は安閑とほぼ同時に立って安閑・宣化朝と並立していた。・これは安閑・宣化が継体天皇の北陸時代からの妻目子媛の子供であるのに対して欽明は継体天皇の皇后となった、仁賢天皇の娘手白香皇女が産んだ子供であり、北陸系勢力と旧大和系勢力の争いがあったのではないか。

ということになります。ただ、この説にも色々と問題があり、例えば天皇が並立していたというのに戦乱の記録が無いのは何故か、そもそも安閑・宣化が宮を置いた場所と欽明が宮を置いた場所は目と鼻の先で、そんなに近くで対立できる訳が無い、大伴・物部・蘇我の三大氏族が安閑・宣化と欽明の両方に仕えているのは何故か、宣化天皇2年に任那と百済を支援する軍隊を派遣した記事があるが、皇位継承争いをやっている最中に外国にまで軍隊を派遣する余裕があるのか? などと、こういう説を立てることによって逆に起きてくる問題も多いようです。

この問題を考える為に私は日本書紀の原文を読んでみました。

まず、継体天皇の巻の元年の項の最後に「是年也太歳丁亥」とありますから、継体天皇の元年は間違いなく507年になります。で問題の巻末ですが、確かに25年になくなったことになっていて、それだと531年辛亥の年になるのですが、その後に例の注記がついています。

  或本云、天皇、廿八年歳次甲寅崩。而此云廿五年歳次辛亥崩者、取百済本記為文。其文云、太歳辛亥三月、軍進至于安羅営乞屯城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣。後勘校者、知之也。       (原文は岩波文庫による)

要するに、これを書いた人も分からなかった訳で(^^;「後勘校者、知之也。」という訳で「後の人が調べて明らかにするだろう」という訳ですが、日本書紀の編纂された奈良時代にも分からなかったことが、1400年もたった今分かる訳がないのであって(^_^;; 困りますね。

ところで、継体天皇の次の安閑天皇の巻の元年の項の最後は「是年太歳甲寅」です。甲寅なら534年になります。継体天皇が531年に亡くなって安閑天皇が534年に即位したのだとしたら、その間の2年は何なのでしょう?書紀は何か異変を伝えているでしょうか?

否。安閑天皇の巻には「継体天皇25年の2月に天皇が安閑に位を譲り、その日に天皇は亡くなった」とありますので、空白は無かったとされています。

ここで天皇の年齢を少し考えてみます。

継体天皇は辛亥531年に亡くなって82歳と書かれていますが、この年の安閑・宣化の年を考えてみます。安閑は2年になくなっており、その年70歳だったとされます。これは継体天皇が亡くなった翌年な訳ですから、継体天皇が亡くなったのが82歳の時、531年なら、継体天皇が亡くなった時に69歳だったことになります。すると安閑は継体が13歳の時の子供なのでしょうか?

また、宣化は安閑が死んだ翌年に即位して4年に73歳で死んでいますので、安閑が死んだ年は69歳、継体が死んだ時は68歳ということになり、同じく継体が14歳の時の子供ということになってしまいます。

結局この原文を眺めていて、私が一番自然ではないかと思う解釈は、継体天皇の巻の最後に「或本云」と書かれている、継体天皇が28年に亡くなったという説を取ることです。すると、継体天皇が亡くなったのは甲寅534年になって、その年に安閑がすぐ即位すれば、全ての計算は合って来ます。

空白の2年間というものがなくなって、きれいに記事がつながりますし、安閑・宣化は継体が16歳・17歳の時の子供ということになってこれだとそんなに無理がありません。

これで説明がつかないのは百済本記の記事の引用だけですが、この問題に関しては、むしろそちらを考え直した方がいいのではなかろうかとも思います。そもそも「日本天皇及太子皇子、倶崩薨」とは何でしょうか? ここで継体天皇の皇太子というのは安閑だったはずで(継体天皇7年12月に皇太子としてやって欲しいと言ったという記事がある)、安閑が継体と一緒に死んでしまった訳がないはずです。或はこれは継体が亡くなった2年後に安閑も死んだというのを「倶崩薨」と表現したのでしょうか? あるいは平子鐸嶺のいうように、これは宣化天皇の巻の最後に天皇を皇后とその孺子とともに合葬したと書いてある記事に対応しているのでしょうか? しかし、いづれにしても、それでは「辛亥」という語句の説明が付きません。どうもよく分からない所です。

また、「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」も問題なのですが、これはもし百済本記を誤りと考えると、そこから派生した誤りと説明できないこともありません。つまり、その説明は(少々強引かも知れませんが)百済本記により、531年に継体と安閑が死亡したと考えた為、翌年532年に欽明が即位したと上記2つの文書を書いた人は考えた。そのため、538年の仏教伝来を欽明天皇の代と考えてしまった。

もし、そういう解釈が許されるならば仏教は本当に538年戊午の年に伝来したことになります。

いづれにしても、この問題は私もまた今後も色々と考えてみたいと思います。

   辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540継25  26  27 安1   2  宣1   2   3   4  欽1継体 82歳 (83) (84) (85)安閑 66 67 68 69 70宣化 65 66 67 68 69 70 71 72 73継体死?      安閑 安閑 宣化       宣化 欽明即位 死去 即位       死去 即位※

※欽明の年齢はよく分かっていない。継体天皇は即位した年に手白香皇女と結婚し「遂生一男。是為天国排開広庭尊。是嫡子而幼年。於二兄治後有其天下」とある。また即位した時の年も死んだ時の年も「若干」としか書いてない。欽明の死亡時年齢について、皇代記は63歳、一代要記は62歳、神皇正統記は81歳とする。62なら534年当時25歳、81なら44歳。62歳説を取っても天皇になるのに「幼なすぎる年齢」とは思えない。もし手白香皇女と結婚した翌年に生まれたとしたら27歳になる。しかし翌年生まれたなら「遂生」とは言わないだろうから、3年後くらいに生まれたものか?(それ以上生まれなかったら、大和勢力との関係を保つ為に大和系の他の皇女も娶ることになった可能性が高い)すると25歳ということになって、一代要記説の年齢になる。なお、神皇正統記は81歳説は継体天皇の即位前に生まれたことになってしまうので無理である。


(1996.3.10)

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