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↑ 持統天皇の吉野行幸(689)


持統天皇3年(689)1月18日、持統天皇は吉野の行幸しました。

と簡単に書いたのですが、この文章にはかなりの問題があります。実はこの
時点で天皇は空位です。天武天皇が亡くなったのが天武天皇15年(686)年9月9日
なのですが、持統天皇が即位したのはその4年後、つまり私たちが持統天皇4年
と呼んでいる年の1月1日で、その間は持統天皇(正確にはまだその時点では
天武天皇の皇后・鵜野讃良(うののさらら)皇女にすぎない)が、正式に即位し
ないまま天皇の仕事をしていました。このような行為を称制といいます。

古代にはこのように、即位がひじょうに遅れる場合があり、天智天皇も斉明
天皇が亡くなったあと7年もたってから即位しています。この場合、斉明天皇
が亡くなった翌年を天智天皇元年としていますが、天武→持統の所でも天武
天皇が亡くなった翌年を持統天皇元年としています。

従ってこの事実をもっと正確に記述すれば
 天武天皇没後3年した年の1月18日、鵜野讃良皇女(後の持統天皇)が吉野に
 おもむかれた
と書くべきでしょうが、記述がやや煩雑すぎます。

(鵜の字は本当はunicode 鸕 の文字です)

なお日本書紀を見る限りにおいてはこれは天武天皇が亡くなった後の、最初の
吉野行幸です。

さて持統天皇は生涯吉野に31度も行幸しているそうですが、それはなんといっ
ても、吉野という土地が天皇にとってひじょうに大きな意味のある場所であ
ったからでしょう。

天智天皇が亡くなる直前、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)は身の危険を察し
て吉野に脱出。そして天皇の死後、天皇の子である大友皇子と天下分け目の
決戦「壬申の乱」を戦って勝利し(場所は関ヶ原)、天武天皇となります。
この吉野に脱出した時に大海人皇子に付き従ったのは、当時まだ(数えで)18歳
であった讃良皇女(さららのひめみこ)や数人の大海人皇子の子供たち、そして
特に信頼のおける極めて少数の部下たちだけでした。

天智天皇側の刺客におびえながら不便な吉野での生活、そしてその後の激しい
戦争は多感な年代であった讃良皇女にとって生涯忘れることのできないもの
となりました。彼女にとってはここは全ての原点であり、それゆえ天武天皇が
即位してその皇后となり、やがて自ら天皇の地位に上がってもここを忘れる
ことはできなかったのでしょう。

そしてその思いは、やはり吉野に逃れた他の天武天皇の子供たちにも共通の
思いであったでしょう。讃良皇女の気持ちとしては、皇后でもあった自分が
産んだ子である草壁皇子に次の天皇になって欲しいと考えていたとされます。
そこでこの吉野行きでは、おそらく他の主な皇子たちも連れて行き、この、
天武朝の原点となる場所で、みな次は草壁皇子で行きたいのでよろしく頼む
といった話をしたのではないか、とも言われています。

百人一首にも採られている天皇の歌・万葉集28
 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山

などというのもこの頃読まれたものではないかとも言われています。

順調にいけばこの年の適当な吉日か翌年の年初くらいにでも草壁皇子が天皇
として即位するはずだったのでしょう。

ところが草壁皇子はこの年の4月13日に亡くなってしまいます。

この吉野行幸から3ヶ月もたっていませんでした。そこで結局、讃良皇女とし
ては、天皇の地位を草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)に譲るべく
それまでの間自らが中継ぎの天皇として、即位せざるを得なくなってしまう
わけです。ただし天武天皇の年長の皇子である高市皇子を太政大臣として、
バランスを取ることも忘れませんでした。

しかしそのようにして、神功皇后以来、300年ぶりの強力な女帝は生まれた
のです。

なおこの持統天皇3年という年は藤原不比等が歴史の表舞台に登場する年でも
あります。この年の2月26日、彼が判事という職に任命されたことが日本書紀
に記されています。彼が執政者としての地位を固めていくのは文武天皇の時代
以降になります。

(2005-01-17)

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