神護景雲3年(769)9月25日、和気清麻呂が称徳天皇により大隅に流されました。
称徳天皇(阿倍内親王)は日本史上唯一、皇太子になった女性です。女帝は何人もいますが、みな前の天皇が急に崩御したり退位したりしたあと、他に適当な人物がいなかったことからピンチヒッター的に天皇になったケースが大半です。最初から次の天皇として皇太子に指名されていたのは阿倍内親王だけでした。
内親王は聖武天皇が天平感宝元年(749)7月2日退任すると践祚して天皇になりました(孝謙天皇)。(同日天平勝宝と改元。この年は2回改元されている)
しかし、当時は藤原仲麻呂が政治の実権を持っており、天皇はまさに形だけの天皇の地位に甘んじなければなりませんでした。そして天平宝字2年(758)仲麻呂の意向により退位させられ、天皇の地位は大炒王(淳仁天皇)に引き継がれることになりました。
しかし天平宝字4年に、仲麻呂の後ろ盾であった光明皇后が亡くなりますと、孝謙上皇は仲麻呂に対して反旗を翻します。両者の対立は少しずつ先鋭化していき、とうとう天平宝字6年6月3日、上皇は「細々したことは天皇に決めさせるが国家の大事は私が決定する」という詔を発するに至ります。そして天平宝字8年9月11日、鈴印の争奪を巡って両者は軍事衝突。仲麻呂は敗れて逃走しますが、18日捕らわれて処刑されます。そして翌月上皇は淳仁天皇を軟禁して廃位を宣言。上皇は重祚して、再び天皇になりました(称徳天皇)。
さて、弓削道鏡という僧は、このようにして称徳天皇が激しい戦いの末政権を獲得する過程において、そのブレインの一人として活躍しました。天皇は道鏡を非常に尊敬しており、法王という地位を新設して、これに任じます。更には、(天皇自身に子供がなかったため)いっそのこと自分の後継者として道鏡を指名できないものかと考えました。むろん道鏡は皇統の血を引いておりませんので、これは常識的に考えると不可能なことでした。しかしこの時おあつらえ向きの噂が流れます。
その噂とは、宇佐八幡の神が「道鏡を天皇にすると国家は安泰になるであろう」というお告げを出した、というものでした。
(当時宇佐八幡を管理していた九州太宰府の長官は道鏡の弟なので、この噂は、元々そこから出たものではないかと現代では言われています)
大分県の宇佐八幡は全国八幡神社の総本宮。八幡神は天皇家の祖先である応神天皇と同一視されていますので、そのご先祖様が道鏡を天皇にせよと言ったというのであれば、これは皇統の血を引いてないものを天皇に据えてもかまわないものと思われました。そこで、称徳天皇はその噂を確認するため、腹心の部下である和気広虫の弟、清麻呂を宇佐へ派遣してその神託を確認させようとしました。
清麻呂は最初やはり長いものには巻かれろという気持ちで、天皇の意向通りの神託を持ち返ればいいと考え、九州の宇佐までやって来たといいます。しかしさすがにここは大聖地。境内に入った途端神々しい気があふれているのを感じました。清麻呂も緊張します。神官に神に尋ねるべき案件を伝え神殿の前で託宣を待ちました。しかし神官が言った言葉は、清麻呂を一瞬にして不愉快にさせるものでした。
「馬鹿なことを言うな」「ではご自分で確かめなさるがよい」と神官がいいます。清麻呂は本来は俗人が立ち入ることを許されない神殿の中に足を踏み入れました。確かにそこはもう俗界ではありませんでした。彼はたちまち頭の中が空白になり、心が裸になりました。そしてその瞬間、確かに彼は神の意志を理解しました。
彼は帰京します。そして、天皇に自分が聞いた通りの神の声を伝えました。
「古えより天皇と臣下の別は明確である。臣をもって君に代えることはできない」
称徳天皇は激怒、清麻呂と姉の広虫を遠流に処しました。しかし、それでも神託をくつがえすことはできません。失意に陥った天皇は翌年病没。これで推古天皇に始まる180年間の女帝の時代が終わり、奈良時代も終わりに近づいていきます。日本の皇室の万世一系の血統が途切れていたかも知れない、大事件でした。
なお、称徳天皇の後は、天皇の姉・井上内親王の夫である白壁王が藤原永手の強力な後押しにより新天皇となります(光仁天皇)。むろん道鏡は新政権下で即左遷。一方の清麻呂はすぐに呼び戻されて復権。重用されました。