629年春1月4日、田村皇子が蘇我毛人大臣や群卿に推挙されて、皇位の璽印を受け取りました。舒明天皇の誕生です。
紆余曲折がありました。
推古天皇は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子・摂政として、人による統治から法による統治へ政治体制を変えるべく、法令・組織の整備を進めてきました。
順調に行けば、推古天皇の死後は厩戸皇子が後を継いで改革を進展させるはずでした。しかし皇子は推古天皇より先に死んでしまいました。
このため、推古天皇の後継者として、厩戸皇子の子供である山背皇子と、敏達天皇の孫である田村皇子の二人が浮上しました。しかし天皇はそのどちらを後継者とするとも決めぬまま病に倒れました。
天皇は病床にまず田村皇子を招き「天皇の仕事は大変なものである。行動を慎むこと。そして軽々しい言葉を発してはいけません」といいました。そしてその後で今度は山背皇子を呼び「お前もまだまだ若いのだから、あれこれ自分の気持ちをそのまま言ってはいけない。みんなの意見をちゃんと聞くように」といいました。
そして天皇は亡くなりました。
二人の皇子はそれぞれ自分が先帝から言われたことを語り、どちらも先帝は自分を後継者に指名したのだ、と主張しました。そのどちらとも取れる言葉に、群臣たちも悩み、意見はまっぷたつに分かれてしまいました。
しかし山背皇子を強く押していた蘇我摩理勢が蘇我毛人大臣と対立して殺害されるに及び、群臣の意見は一気に田村皇子の方に流れ、この日の即位に至りました。
これは久々の、蘇我の血を引かない天皇の出現でした。しかしそれでは蘇我家は影響力を行使しにくいため、蘇我稲目の血を引く皇女・宝皇女(後の皇極天皇)を皇后に迎えることになりました。
天皇と宝皇后の間には二人の息子(後の天智天皇,天武天皇)と一人の娘(後の孝徳天皇妃)が生まれました。