持統天皇8年(694)12月6日、日本で初めて都市計画された都・藤原京へ遷都が行われました。
それまでの天皇というのは、代々どこかに「宮」を構え、その宮に多くの官僚や豪族たちが出勤してきては、種々の取り決めや打ち合わせ・事務などを行うというシステムがとられており、その宮のある場所が首都でした。
しかし壬申の乱で天下を取った天武天皇は、日本でも中国にならって永続的に使用できる立派な都を作ろうと考えました。しかし天皇は道半ばで亡くなり、その遺志は天武皇后であった持統天皇に引き継がれました。
新京が具体的に計画されたのは天武天皇13年頃からのようです。この年2月28日天武天皇は畿内及び信濃に調査団を派遣し、都にするのに適切な地を探させます。この調査は3ヶ月ほどかかったようです。
実際に工事が始まったのは持統天皇5年12月27日。この日地鎮祭が行われています。(翌年5月23日にも、もう一度行われている)この都には、右大臣は4町、直広貳以上が2町など、身分に応じて屋敷の敷地が配当されました。工事の人足の代金は従来の物資支給ではなく貨幣方式で行われました。これはこれを機会に貨幣経済を浸透させたいという意図と、貨幣方式でないと資金が不足したという問題があったともいわれています。
そして持統天皇8年12月6日の遷都になり、この都は元明天皇の代に平城京に移されるまで14年間、首都として使用されました。
この藤原京は「大和三山」と言われる、香具山・畝傍山・耳成山という奈良盆地の中に立つ小さな山が作る三角形の真ん中にあります。これは北の耳成山で防御をするとともに龍脈を取り入れ、東西の香具山・畝傍山を青龍砂・白虎砂とする、風水の基本形を使用していることが見てとれます。
天武天皇が派遣した新都選定の調査団のメンバーには陰陽師も入っておりましたので、そもそもそういう土地を選定して、都を建設したのでしょう。
荒俣宏は更に、この藤原都の前に使われていた、天武・持統朝の浄御原宮も風水により選定したのではないかと推定しています。詳しい話は同氏の「風水先生」(集英社文庫)を読んでいただければと思いますが、その説が成り立つとすると、石舞台というのは、蘇我馬子の墓とか、そういう話ではなくなってくるかも知れません。