藤原広嗣の乱(740)

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天平12年9月3日。聖武天皇の時代。藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。

藤原広嗣は藤原4家のひとつ式家の当主でした。当時は絶大な権力をふるった藤原南家の武智麿も亡く、藤原不比等の妻・橘三千代夫人の前夫美努王との間の子(つまり不比等の義理の息子になる)葛城王が臣籍に下りて橘諸兄(たちばなのもろえ)と称し右大臣として政治を動かしていました。

その中、広嗣はいわば藤原家のホープであったのですが、言動に横柄さが目立ち、それを疎まれて太宰府に左遷されてしまいます。これを怒った広嗣は、これは天皇の近くで祈祷その他に携わっている玄肪と吉備真備がよからぬことを吹き込んだためではないかと、太宰府で身の潔白を訴える上奏文を書き、天皇に提出します。しかし聖武天皇はそれを受け入れず、そのことを知った広嗣は短気にも太宰府の手勢を率いて反乱を起こしてしまいました。

天皇はただちに1万7千人の兵を派遣、反乱はあっけなく平定されて広嗣は現地で斬られてしまいます。天皇の命令では生きたまま捉えて都まで連行せよとのことだったのですが、連行されて来るといろいろと都合の悪い人も多かったのでしょう。玄肪(本当は目偏)は仏教への帰依の篤い聖武天皇のよきアドバイザーで全国の国分寺創建も彼の助言によるものではないかと言われています。千手観音経を千巻書写するなどというお勤めもしており、日本の観音信仰の元祖の一人です。また彼は中国に留学した折り、5000巻もの経典を日本に持ち帰ったといわれています。その当時日本にはまだ3000巻ほどしか経典がなく彼のもたらしたものは日本の仏教界に非常に大きな刺激を与えました。のちに彼が持ってきた「大日経」を読んだ若き空海(弘法大師)がそれを契機に密教に目覚めたという話も有名です。

玄肪と空海(774-835)は直接は会っていませんが、実は、同じ阿刀一族に属する者という奇縁もありました。玄肪はこのあと天平17年には九州に赴き、観世音寺を創建しますが、この寺は後に空海が中国から帰国したあと、文献を整理するために長期滞在した寺でもあります。ほんとにこの人は空海と縁の深い人です。天平18年(746年)6月18日に亡くなっています(生年不明)。吉備真備は日本の陰陽道(おんみょうどう)の元祖の一人です。彼は陰陽師ではなく、むしろ政治家ですが、中国の古代文献から陰陽道・天文・道教・種々の占い・暦・各種呪術に非常に精通しており、右大臣橘諸兄の側近を務めていました。

諸兄が亡くなったあと藤原仲麻呂(恵美押勝)の時代になりますと、疎まれて左遷されますが、彼はそれを好機として再び中国へ留学します。そして帰国後、仲麻呂が称徳天皇と対立して乱になりますと、その討伐の指揮官に指名され、中国伝来の兵法(遁甲か何かか??)を駆使してこれを倒しました。その後自らも右大臣にまで出世し、称徳天皇が亡くなるまでその責務を務めます。地方の小さな家の出身の者としては異例の出世でした。宝亀6年10月2日亡くなっています。

後に菅原道真が右大臣になった時、彼のよきライバル三善清行は「これは吉備真備以来のことだ」と言いました。もっとも口の悪い三善は「引き際を誤らないように」と正直にアドバイスを書いてしまい道真を怒らせることになります。三善の心配した通り道真の場合は自らが左遷される道へと迷いこんでしまいました。


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