和銅3年(710)の3月10日、元明天皇の御代、それまでの藤原京から新しい都 平城京へと遷都が行われました。 これよりを奈良時代といいます。
聖徳太子の時代頃は、都という概念はなく、天皇や群臣たちの執務もその時 その時の天皇の宮殿で行われていましたので、天皇が変わる度に政庁も引っ 越していたようなものでした。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、この国を天皇を中心としたしっかりとした 国にしようと考え、身分制度の制定、各種律令の整備のほか、歴史書の編纂 を命じましたが、又中国にならって永続的に利用できる都の建設を立案します。
そこで最初にできたのが「藤原京」で、持統天皇の時代の完成です。
43 44 +−−−−−元明天皇 +−元正天皇 35,37 38 | 41 ‖−−−+ 42 斉明天皇 +−天智天皇+−持統天皇 ‖ +−文武天皇 45 ‖−−+ 40 ‖−−−草壁皇子 ‖−−聖武天皇 舒明天皇 +−−−−−天武天皇 +−藤原宮子 ‖ 46,48 34 | ‖−−称徳天皇 藤原鎌足−−−−藤原不比等−+ ‖ +−−−−藤原光明子
しかしやがてこれが手狭になったため、文武天皇と藤原不比等は更に新しく 大きな都の建設を計画、これが元明天皇の時代、和銅元年に工事開始、和銅 3年3月10日完成して遷都を行ったものです。
続日本記はこの工事を始める時の天皇の詔(みことのり)をこう書いています。
『往古より己降、近き代に至るまでに日を揆り星を瞻て宮室の基を起こし、 世を占ひ土を相て帝皇の邑を建つ。平城の地四禽図に叶ひ、三山鎮めを 作し、亀筮並びに従ふ。都邑を建つべし』
ここで四禽とは東に青龍すむ清流あり、南に朱雀すむ平地あり、西に白虎 すむ大道あり、北に玄武すむ丘陵あり、というもので、風水思想の基本で す。この詔は風水や占星術でこの地を探し、太占でも確かめたということ を言っています(こう言わないと保守的な人が納得しない)。なお、ここで 三山とは御蓋山・市庭古墳・垂仁天皇陵とされており、人工的に風水を整 えた日本初の都市であったようです。(藤原京の場合は自然の風水利用)