藤原房前死去(737)

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まず系図を見て頂きましょう。+−【南家】武智麿−仲麿藤原鎌足−藤原不比等−+−【北家】房前−真盾−内麿−冬嗣+−【式家】宇合−+−広嗣|        +−清成−種嗣−薬子+−【京家】麻呂

藤原家は天智天皇の右腕として活躍した鎌足、元明・元正・聖武と3代の天皇を支えた不比等のあと、不比等の4人の息子達の4つの家に分かれます。ところが、この天平9年(737)、まず次男の房前が4月17日に57歳で亡くなったのに続き、7月12日に四男の麻呂(43)、長男の武智麿(58)、三男の宇合(44)と相次いで死亡し、藤原家のピンチが訪れます。いづれも当時流行した天然痘によるものでした。

このあと当面藤原家を支えたのは武智麿の子仲麿ですが、彼が亡くなると孝謙天皇は僧の道鏡を重用して国を乱れさせます。一方の式家では740年に広嗣が「広嗣の乱」を起こした他、種嗣は長岡京で暗殺され(早良親王事件)、薬子は「薬子の乱」を起こすなど、どうもトラブル続きです。

そうして藤原家が再度政治の中枢に戻って来るのは北家・房前の曾孫の冬嗣が登場する嵯峨天皇の御代まで待たされることになりました。


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