推古天皇12年(604)4月3日、聖徳太子は十七条憲法(とおあまりななおち・いつくしきのり,じゅうななじょう・けんぽう)を発表しました。
一に曰く、和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。三に曰く、詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。四に曰く、郡卿百寮、礼をもって本とせよ。五に曰く、むさぼりを絶ち、欲することを捨て、明らかに訴訟を弁めよ。六に曰く、悪を懲らしめ、善を勧むるは古の良き典なり。七に曰く、人おのおの任あり。つかさどること乱れざるべし。八に曰く、郡卿百寮、早くまいりて、遅く退でよ。九に曰く、信はこれ義の本なり。毎事に信あるべし。十に曰く、忿を絶ち、瞋を捨て、人の違ふことを怒らざれ。十一に曰く、功過を明らかにみて、賞罰をと必ず当てよ十二に曰く、国司・国造は百姓に斂らざれ。国に二君あらず。十三に曰く、諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。十四に曰く、郡臣百寮、嫉み妬むことあることなかれ。十五に曰く、私を背き公に向くは、これ臣が道なり。十六に曰く、民を使ふに時をもってするは、古の良き典なり。十七に曰く、それ事を独断むべからず。必ず衆と論ふべし。
当時お隣の中国では南北朝の混乱を制して随が成立し強大な権力が出現したところでした。この時代に実質的に政治を動かす立場にたった聖徳太子は、国の基盤をいそぎしっかりとさせなければ、日本は中国の属国になってしまうという危機感を抱いていたと思われます。
そこではじめて憲(基本)となる法を定め、群臣・群雄の意志の統一を図ろうとしたものと思われます。
特に第一条の「和をもって貴しとし」や十二条の勝手な税金を取ってはいけないという条文などは、大王(天皇)家を中心にこの国はまとまるのだということを明確に宣言したものになっています。
天皇(推古天皇)を叔母(母の姉)・義母(妻の母)に持ち、時の実力者蘇我馬子をも大叔父(祖母の兄)・義父(別の妻の父)に持ち、自らも摂政に任じられていた、まさに権力の中枢に位置した聖徳太子故に効果を持ったものであったのでしょう。