文正2年(1467)1月18日、畠山義就が京都上御霊社にいた畠山政長を攻めて、これを発端に1477年11月11日まで10年10ヶ月にも及ぶ「応仁の乱」が始まりました。
なお、この年は3月に「応仁」と改元されています。つまり応仁の乱が始まったのは応仁元年ではありません。これは「JR奈良線は奈良県を通っていない」などと並んで有名な話。
室町幕府は三大将軍足利義満の時代に最も繁栄を極め、その象徴があの美しい金閣寺です。しかし義満の次の将軍義持は幕府の権威を低下させ、その後は将軍の空位時代やら、くじびきで将軍を決めたりなど、かなりひどいことになっていきます。
そしてこの当時将軍職にあったのは8代将軍足利義政。銀閣寺を作った将軍ですが、金閣寺が繁栄の象徴であったのに対して、銀閣寺の場合は逃避行為に近いものであったようです。
政治力の無い将軍が続いたため、幕府の運営は何人かの実力派大名の手に移りつつありました。その実力者の中のひとつ、紀州の畠山家と越前の斯波家では当時相続争いが起きていましたが、その双方が大大名の細川と山名に支持を求め、対立がより根深くなっていました。色分けとしては
畠山政長 − 細川勝元 − 斯波義敏 (東軍)畠山義就 − 山名持豊 − 斯波義廉 (西軍)
となります。
更にここに本来彼らの調整役に回るべきであった、足利将軍家自体に問題が起きてしまいます。
将軍義政は妻の日野富子との間になかなか子供ができなかった為、次期将軍として弟の義視を還俗させて、後継者に指名します。
ところがその直後富子に男の子義尚が生まれてしまうのです。
このため、富子としてはこの義尚を次期将軍の位につけたいと考えるのですが、義視は細川勝元に応援を求めて、次期将軍の地位を確かなものにしようとしました。すると日野富子は結果的に細川と対立する山名持豊に支援を求めたため、足利家自体が分裂状態に陥ります。
そして調停者無き対立は自然に武力衝突へと発展し、1467年1月18日の乱勃発となるわけです。
戦いは日本の勢力を二分して長く長く戦われ、なかなか決着が付きませんでした。主戦場となった京都はこのため焼け野原となり、天皇をはじめ貴族たちは戦乱を逃れてあちこちに避難。また、天皇家も将軍家ともに財政的基盤を失って、世は戦国時代へと移っていくことになります。
その戦乱のさなか、将軍義政は酒を飲んでいるばかりで何もしようとしなかったといわれます。しかし将軍のところには各種の決裁書類がまわってきます。結局、義政に代わって、これらの書類は日野富子が決裁せざるを得ない状態が続きました。
また日野富子は財政的なセンスの持ち主で、今でいえば財テクのようなこともやって、幕府の財政の破綻をなんとか防ぎ、また将軍家以上に困窮を極めた天皇家にも財政的支援を続けました。
日野富子は応仁の乱の勃発のきっかけを作った悪人とみなされることも多いのですが、彼女がいなければ、この時点で足利幕府は消滅していたことも、また間違いないと思われます。
応仁の乱自体は1477年、多くの大名が京都から引き上げて領地に戻ってしまった事から自然消滅しました。