光厳天皇の践祚(1331)

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元弘元年(1331年)の9月20日、現在では北朝初代と数えられる光厳(こうごん)天皇が践祚(天皇の位につくこと。後に改めて即位をする)しました。ここから半世紀にわたる朝廷分裂(南北朝)という日本史上稀に見る異常事態が始まることになります。

事の発端は60年ほど前の亀山天皇の時代にまで遡ります。後深草天皇が17歳の時に病気をして執務が困難になったため、皇位は弟でまだ10歳の亀山天皇に移されます。当時は院政の時代なので天皇はこのように幼くても構わなかったのですが、問題は父の後嵯峨天皇が亡くなった後でした。兄の後深草は当然次は自分が執政する番と思っていたものの、実際の権力は類い希な器量を持つ亀山の方へ直行してしまいます。(亀山上皇は元寇を乗り切った人)

これにおさまらない後深草天皇は敵対行動を取り始めますが、蒙古との対立を抱えている最中に皇室内でそのような争いをされてはと慌てた鎌倉幕府の仲介で、後深草上皇の皇子である煕仁親王(後の伏見天皇)を後宇多天皇(亀山上皇の皇子)の皇太子とするという調停をまとめてしまいます。

ここから、皇統が後深草上皇の系統(持明院統)と亀山上皇の系統(大覚寺統)に分裂してしまうのです。この付近の天皇は次のようになっています。

 持明院統 89後深草 92伏見  93後伏見 95花園  →北朝へ大覚寺統 90亀山  91後宇多 94後二条 96後醍醐 →南朝へ

なお後醍醐天皇の皇太子だった恒良親王は新田義貞に奉じられて後醍醐天皇からの『譲位のことば』を受け北陸で立っているので、一時的には三つの朝廷が並立していたことになります。後醍醐天皇は三種の神器の偽物を作らせ光明天皇や恒良親王にはその偽物を渡し、本物は自分が持って吉野に逃れたとされています。

光厳天皇は実際には後醍醐天皇の後の事実上の第97代天皇です。後醍醐天皇は正中の変(1324)で一度倒幕に失敗したものの、めげずに1331年元弘の変を起こしますが、再び失敗して皇位を廃され、隠岐に流されてしまいます。

その後継天皇として、後伏見上皇の詔により即位したのが光厳天皇なのです。

ところが後醍醐上皇は1333年隠岐を脱出。足利尊氏・新田義貞・楠木正成らの協力で倒幕に成功。それと共に2年前の廃位を取り消して「自立登極」を宣言してしまいます。このため光厳天皇は皇位を取り消されてしまうのです。(他例がないので不明確だが、恐らく法的には天皇在位自体が抹消されたものと考えられる。ただし光厳天皇はこのあと「上皇」として院政を行っている)

その後の展開はご存じの通りで「建武の新政」は3年で瓦解し、後醍醐天皇は捕らえられて三種の神器の引き渡しを迫られ、それに同意して神器を足利側に引き渡して、これで光厳天皇の弟の光明天皇が即位(現代では北朝第2代と数えられている)して、その光明天皇から足利尊氏は1338年、征夷大将軍に任じられる訳ですが、そのあと吉野に脱出した後醍醐上皇は「実は渡した神器は偽物であった」と述べ、本物はこちらにあるから自分はまだ天皇であると主張する訳です。そして1339年にその「本物の神器」を息子の後村上天皇に譲り、ここで朝廷分裂が不可避のものとなってしまいました。

実際問題として、当時3セット存在したと思われる神器の内の、どれが本物だったかについては今となっては分かりません。実際当時も後醍醐天皇以外には誰も真実は知らなかったかもしれませんが、1392年に南朝側の神器が北朝の後小松天皇に譲られたことで、皇統は統一された訳ですから、殊更詮索するのもあまり意味のないことでしょう。


(2005-09-19)

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