嘉吉3年7月21日、わずか10歳の少年将軍足利義勝が赤痢にかかって死亡しました。このあたりの足利将軍家は、ちょっとひどい状態が続いています。
足利家は3代将軍義満の時に一番栄え、この時に南北朝の統合も実現し義満は「日本国王」をも名乗る勢いでした。しかしその後をついだ4代将軍義持は父親ほどの器量がなく消極的な政策で将軍家の地盤沈下を起こしてしまいます。そして応永30年出家して子の義量に将軍職を譲りますが、義量は応永32年19歳で死去。これから4年間将軍空白時代が続きます。
結局後継者が決らないまま義持も応永35年死去。このままではラチがあかないため、次の将軍はなんとクジ引きで決めることに決定。義教が当選して第6代将軍になります。しかしこの義教は滅茶苦茶やって赤松満祐に殺されてしまい、そのあとをわずか8歳でついだ義勝も2年後10歳で死去するのです。
この後は義勝の弟の義政が9歳であとをつぎますが、この義政も全く将軍の器のない人物で、国が苦しいのにぜいたくをしたり重税を課したり、ひどい政治を行ない、後継者問題で応仁の乱を引き起こしてしまいます。そして政務をさぼるようになってしまったので、各種の決裁は妻の日野富子が代行せざるを得ない状態になりました。この後室町幕府は戦国の世が終わるまで単なる名目上の存在になってしまいます。