慶応4年は9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇睦仁(明治天皇)は江戸城改め東京城に入り、城の中に太政官府を設置します。これを一般には東京遷都としています。
明治維新は薩摩・長州などの勢力が徳川幕府を排除して天皇中心の新しい国家を建設しようという意図のもとに実行したものですが、民衆にとっては250年にわたって日本を支配してきた徳川幕府こそやはり日本の中心と思えました。
当時外国の中には日本が江戸を中心とする国と京都を中心とする国に東西分裂するのではないかと予測していた国もあったようですし、政府自身もその危険を感じていました。その危険を回避するとともに国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。しかしその為に天皇が京都を捨てるとすればそれは京都の民衆の同意を得ることは難しいものと思われました。
そこで取り敢えず天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、ここを東京城と改名する詔を出します。しかし京都市民の思いに応える為この年は12月22日に京都に戻り、28日には一条忠香の娘美子(はるこ,皇后になる以前の名前は寿栄姫)を皇后として立て戊辰戦争で慌ただしい中一通りの祝儀が行われます。
しかし天皇は再び3月7日東京に向かい、この28日着。結局正式な遷都の布告はなく、「天皇が東京にいる間は太政官も東京に置く」というなんとも玉虫色の宣言がなされただけでした。しかも京都市民に向けて「東国は未開の地であるから度々行幸して教化するが、決して京都を見捨てたりしないので安心するように」というメッセージまで出されます。要するに日本の首都はどうも法的に厳密なことをいうとまだ京都であり、天皇が東京に「滞在」している間だけ、臨時に東京が首都とみなされるということのようです。
しかし京都市民はこのようなまやかしの言葉に納得はしませんでした。同年9月になって皇后も東京へ「行啓する」という話になりますとその行列を止めようとする民衆が道にあふれ、兵が蹴散らさなければならなかったといいます。
このようにして130年前の「遷都?」は実行されました。