鹿鳴館オープン(1883)

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明治16年(1883)11月28日、東京麹町山下町に、西洋社交クラブ・鹿鳴館がオープンしました。

この鹿鳴館のオープンは外務卿・井上馨が強力に押し進めて実現したものです。井上馨は、関税や治外法権など種々の問題を抱えた不平等条約を改正すべく、その基層にある西洋の日本蔑視を改めさせるには、日本の文化が西洋並みに高いことを示威する必要があると痛感していました。そこで、西洋風の社交クラブの設立に動いたのです。

この鹿鳴館を設計したのはイギリス人の若き建築家・ジョサイア・コンドル(Josiah Conder,1852-1920)。明治10年に来日し、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の教師として多くの人材を育てました。彼が設計した建物は他に、帝国博物館(現東京国立博物館)、ニコライ堂、三菱の岩崎久彌邸、などがあります。日本女性くめと結婚、大正9年東京で亡くなりました。

鹿鳴館の建築費は18万円。当時の物価から考えると現在の40億円くらいに相当するものと思われます。あちこちの部門からかなり無理して予算を拠出させています。建坪410坪。レンガづくりの2階建て。イタリアルネッサンス風に英国風を加味した美しいデザインでした。

オープン当日は西洋風の衣装に身を包んだ600人の紳士・淑女が集まりました。1885年になるとルルー率いる軍楽隊が吹奏楽を演奏。貴族たちはダンスに興じます。ここに集まった人々の雰囲気は西洋人から見るとやや失笑するようなものであった、とも言われますし、また日本の伝統を重んじる人々からは眉をひそめられます。しかし、新しもの好きの人たちには文明開化の象徴として映り、『鹿鳴館時代』を到来させます。

そして、この鹿鳴館は井上馨が意図した条約改正に向けての下地にも必ずしもならなかったようですが、約10年後1894年。日本はようやく不平等条約の改正に成功します。


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