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黒田雅子とアヤラの結婚話(1931)
昭和6年(1931)1月19日、千葉県の久留里城主の家柄である黒田子爵の次女雅子 さん(1912-1989)と、エチオピア皇帝の甥であるアラヤ・アベベ(Araya Abebe) 殿下との結婚が決まりました。元々1930年にエチオピアのハイレ・セラシェ (Haile Selassie)皇帝の戴冠式が行われ、日本から外交官が出席したため、 その返礼としてエチオピアから日本へ使節団がやってきました。アラヤ殿下は その使節団のメンバーになっており、日本という国がひじょうに気に入って、 ぜひ日本人女性と結婚したいと希望したことから、縁談が進んだものです。 日本ではおめでたいこととして大変盛り上がり、これを機会に日本とエチオピ アの友好をと話は進んでいきます。これが今の時代に起きたのであれば、この まま成立したのでしょうが、当時はひじょうにきな臭い情勢でした。アフリカ のこの地域での覇権を狙うイタリアはエチオピアに武力的に干渉しており、今 ここで日本がエチオピアの友好国になると、何とといっても日露戦争でロシア に勝ったような国、侮れないと考えます。 そこでイタリアの実権を握るムッソリーニはこの婚儀に様々な干渉を行い結局 4月1日、破談にしてしまいます。そしてその年の秋に日本が満州事変を起こす とイタリアは日本が満州で軍事行動をすることを黙認する代わりにイタリアの エチオピアでの行動を黙認するという密約が日伊間に成立。日本はエチオピア を見捨てて1936年、エチオピアはイタリア領になってしまいました。 そしてエチオピアをイタリアの手から解放し、独立を回復(1941)させたのは、 かつて日本と日英同盟を組んでいた国でもある、イギリスでした。もしこの時 この婚儀が成立していて日本がエチオピア問題でイタリアと対立していれば、 その後の日独伊の同盟はあり得なかったでしょうから、太平洋戦争のあり方も 変わっていた可能性もあります。これは意外に大きな分岐点であったのかも 知れません。 なおエチオピアは「シヴァの女王」の国で、皇帝はシヴァの女王とソロモン王 の子供の末裔です。日本の皇室と並ぶ、世界でも最古級の皇統を保っていたの ですが、1974年の社会主義革命で皇帝は退位させられてしまいました(1975死去)。
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