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広島平和記念日(8.6)
昭和20年8月6日午前8時15分17秒、「エノラ・ゲイ(ENOLA GAY)」という名前の アメリカ軍B29戦闘機が原爆「リトル・ボーイ」を投下。まもなく高度580 mで炸裂したこの原爆はこの一瞬の爆発で30万人の民間人の生命を奪いました。 アメリカの原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画(Manhattan Project)」 の名前で知られています。この計画の提案者は他でもないアインシュタインです。 1939年8月2日、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードは最近物理学 の分野で「核分裂」というものが発見され、この現象を使うともの凄い破壊力 を持つ兵器を作ることが可能であり、ドイツがこの兵器の開発を進めている可 能性があることをアメリカ大統領宛の手紙で指摘し、ドイツに先んじてアメリ カがこれを開発すべきだと主張しました。 この動きはアメリカ国内の科学者の間で広がり、アメリカ政府も動き始めます。 数々の準備を経て、やがて1942年8月13日、原爆を製造するためのマンハッタン 計画がスタートしました。その責任者に選ばれたのは後に「原爆の父」という ありがたくない名前をもらうことになるロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904.4.22 NewYorkCity - 1967.02.18)でした。 プロジェクトはニューメキシコのロス・アラモスの研究施設に大勢の科学者を 半ば缶詰状態にして進められました。同年12月にはフェルミらが核分裂が連鎖 反応を起こすことを確認、翌年からウランの本格的製造も始まります。そして 1945年の春頃には、夏頃までに原爆が製造できる見込みが立ちました。 当初計画はナチスドイツに対抗するために進められました。しかし計画が進行 する内にドイツが降伏してしまったため、そのターゲットはまだ戦い続けてい る日本に変更されてしまいました。 そして1945年7月16日、世界初の原子爆弾がニューメキシコのアラゴモードで 実験的に爆発させられました。当時これに立ち会った兵士らは核の恐ろしさを 知らなかったため、「景気のいい花火だ」くらいに思って見ていました。無論 彼らはしっかり被爆していましたが、それが明らかになったのは何年も後のこ とです。 計画を推進してきた科学者らは、この原爆の最初の実験を見て肝をつぶします。 これほど強力な物であったとは思いもよらなかったのです。彼らは連名でこの 計画の中止を大統領に訴え出ますが、トルーマン大統領は拒否。彼らはさらに 署名を集めますが、軍に妨害されてしまいます。 そして計画は行くところまで進行してしまいました。 このアラゴモードでの実験が行われたその日の内に、日本に投下する予定の原 爆は巡洋艦インディアナ・ポリスに積み込まれ、日本への攻撃基地のあるテニ アン島へ輸送されました。このインディアナ・ボリスは皮肉なことに荷物を送 り届けて本国へ帰る途中、日本の潜水艦に撃沈されてしまいます。 原爆投下目標地点は広島・小倉・長崎・新潟の順に優先することが決定されま した。当初京都も目標に入っていたのですが、スチムソン陸軍長官が反対した ため外されました。これらの目標都市は原爆の破壊力がはっきり分かるよう、 通常の空襲は行わなずに町並みを温存しておくことが決定されていました。 そして8月6日午前2時45分、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸します。目標 は当初の予定通り第一ターゲットの広島と決定されました。四国上空を通過し たところで日本軍の戦闘機と遭遇します。当然向こうは迎撃してきますが、エ ノラ・ゲイは関わり合いになりたくなかったため、逃げます。日本軍機も深追 いはしなかったため、やがて午前8時すぎに広島上空に到達。8時15分17秒原子 爆弾を投下しました。 この広島への原爆投下は「実験」の色合いが非常に濃いものでした。町並みの 破壊の程度を確認するために空襲をかけずに温存したことは今述べましたが、 その他、アメリカは後に日本に進駐して来た段階で、広島市の生存者の健康診 断を行うとともにそれと本来似た分布を示すと考えられた近隣の呉市の住民の 健康診断も行っています。 この実験の犠牲になったのは日本人だけではありません。アメリカはこの原爆 を使用する前の段階としてカリフォルニア大学病院で4歳の子供を含む18人 の患者に、無論本人には知らせずに、大量の放射性物質を投与し、放射能の人 体への影響を調査しています。この18人は或いはすぐに死亡したり、或いは 足を切断する羽目になったりなど、深刻な放射能障害にかかっています。 マンハッタン計画を進めていたオッペイハイマーら自身も最後の辺りではかな り身の危険を感じていました。彼は万一の時のために最低限記録に残さなけれ ばならないことを奥さんへの手紙に書きました。ただしこの時普通に手紙に書 けば検閲に引っかかってしまう為、二重にした封筒の内封筒に文章を書くとい う方法でこれをクリアしました。 アインシュタインが懸念していたドイツの核開発は1944年2月に断念されてい ました。ドイツは日本とも協力の上原爆の開発を進めており、日本でも数十人 の科学者が研究をしていましたが、こちらは1945年4月の東京大空襲で原料の ウランが焼失してしまい、こちらも断念を余儀なくされていました。ドイツ は一部のウランを日本に搬送していましたが、この搬送途中の船が連合軍に 拿捕されてしまい、このドイツで精製されたウランは広島原爆の材料の一部 に使われてしまいました。 広島の原爆の死者は当初1万5千人と発表されました。しかし年を追うごとに その数字は増え続け、現在では15〜20万人程度と推定されています。ただし この人数はあくまで原爆によりすぐに死んだ人の数であり、その後放射能 障害で死んだ人を含めると30万人以上に上るものと思われます。 原爆が落とされた時、広島は50年は人が近づけない町になるのではないか と言われました。しかし偉大な自然はその強い放射能をも浄化して大都市を 復興させてくれました。 今、爆心地にたたずむ原爆ドームにはなぜか静かな空気が流れています。
Dropped down from 今日は何の日.