2月7日は源平の合戦の「一ノ谷の合戦」があった日です。
前年寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に入り、戦いに敗れた平家は西海に逃れて屋島に拠を移していました。しかし全てに荒っぽい義仲を後白河法王は嫌い、義仲が法王の命を受けて西海に平家と戦いに行った隙に義仲打倒の命を源頼朝に出してしまいます。
いったんは京都に戻って後白河法王を幽閉し、征夷大将軍に就任する義仲ですが、源範頼・義経の連合軍に破れ、義仲は戦死、巴御前は北陸へと落ちていきます。(1184.1.20 宇治川の合戦)
源氏の内輪もめを好機とみた平家は京都を奪回すべく、現在の神戸の生田神社のかいわい、一ノ谷に陣を整えます。平家が安徳天皇を擁していることに苦慮した後白河法王は和平の道を探り、2月8日までは攻撃しないから話し合おうと平家に伝えたのですが、範頼・義経の軍はそれを無視して7日の朝の内に戦争を始めてしまいました。
最初範頼の軍が東から、義経の軍が西から攻めて挟み撃ちにする予定だったのですが、熊谷直実たちが無茶な先陣争いから戦闘の発端を開いてしまい、まだ義経たちが六甲の山の中を進軍している内に、眼下では死闘が繰り広げられる結果になります。
ここで義経はその崖を駆け下りて戦闘に参加することを思い立ちます。そこで道案内をしていた地元の猟師に「この崖を降りれないか?」と尋ねますと、猟師はびっくりして「無理ですよ。時々鹿が駆け下りているのは見ますけど人馬には不可能です」と答えます。
すると義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿に降りれて馬に降りれない筈がない」といい、手近な馬を10頭ほど崖から突き落としてみました。
すると中には途中で転んで足を折ってしまった馬もありましたが、きちんと下までたどりつけた馬もいました。すると義経は「よし。行ける。ここから行くぞ」と号令、義経は30騎ほどの先頭に立って崖を降りて行きます。
すると、殿に続けと、その他の者も大勢続いて降りていきました。途中からは佐原義連が崖を降りる先頭を務めました。これを「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」といいます。
こうして思いも掛けない方角から敵軍が来たのに驚いた平氏は混乱して総崩れになり、昼頃には一ノ谷の合戦は決着が付いてしまいました。