元暦2年(1185)の壇ノ浦の合戦が行われ、平家は滅亡しました。
治承4年(1180)に源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげて以来5年、平家・源氏の最終決戦で、この時の船の数が平家500艘、源氏700艘といいますので、死者の数は5000人を優に越すのではないかと思われます。
戦闘は朝6時頃から始まります。
当初は海戦に慣れた平家がもう後が無い必死さも手伝って押しておりましたが、昼頃潮が速くなりだすと平家と源氏の船がいたるところで接触。接近戦になって源氏は次第に挽回し始めます。
また、当初平家方はわざと、いかにも貴人が乗っていそうに見える目立つ船をおとりにし、実際の要人は小さな船に乗せるという目くらまし戦法をとっていましたが、これも時間が立つにつれバレてしまい、源氏はターゲットを間違えないようになってきました。
源氏が少しずつ挽回していくと平家方から源氏方へ裏切る者も相次ぎました。そうして戦局はわずか1時間ほどで逆転してしまいます。
午後になると平家の者たちは敗戦を認識し、源氏の手にとらえられる前に死を選ぼうとします。経盛と教盛、資盛と有盛、なども手をつないで一緒に水の中へ消えて行きました。
御座船では二位尼(平清盛の妻で安徳天皇の祖母時子)がまだ8歳の天皇を抱き三種の神器を身につけて入水しました。つづいて建礼門院(安徳天皇の母で清盛と時子の娘、徳子)も飛び込んだのですが、彼女は衣服に飛んできた矢が刺さって沈めずにいた所を源氏の武将に引き上げられてしまいました。
源氏は安徳天皇がいるにも関わらず後白河法王との合議により京都で既に擁立していた新天皇(後鳥羽天皇)の地位を正統のものと天下に主張する為、三種の神器の捜索を必死に行いました。しかし、勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣は発見できませんでした。そのため以後草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用することになります。
日本のオカルティストたちの中には、ここで剣が皇室の手から失われたことが、以後、剣の象徴である武士たちに政権を取られてしまったことを表していると指摘する人が多くあります。
(一説では鏡は別の女官が持って飛び込もうとしていたところを源氏の兵に抱き留められたとも。勾玉は波間に浮かんでいたのですぐに引き上げられたらしい。なお草薙剣の本体はそもそも熱田神宮にあり、安徳天皇が帯同していたのはその分霊です。同様に鏡の本体は伊勢神宮です。皇居に本体があるのは勾玉だけで、京都が首都であった時にはこの3つの神器の所在地がほぼ正三角形を構成していました)
あと少しの所で死にそこねた建礼門院はまだ29歳の若さでしたが尼となり、それから30年間の余生を京都大原寂光院で送りることになりました。そこには後白河法王も気遣って訪問して、彼女を励ましました。
激戦の地壇ノ浦ではその後、漁師は正座して釣りをするようになったといいます。その下に安徳天皇が眠っているからです。