斉衡4年(857)2月19日、藤原良房が太政大臣に任じられました。これは皇室の血を引かない者が太政大臣に任じられた最初です。
基本的に昔の大臣というのは左大臣・右大臣の2人制であり、例えば藤原不比等などはずっと右大臣で、その時の左大臣は(物部)石上麻呂、橘諸兄は右大臣から後に左大臣に昇進し、その時の右大臣は藤原豊成です。
しかし通常の大臣の権限よりも更にその権限を与えてもいいような人材がいる場合は特に太政大臣を立てて任じる場合がありました。
ただしその地位は本来は天皇の後継者含みの地位であり、それまで任じられたのは、天智天皇の時の大友皇子、持統天皇の時の高市皇子、の2人しかありませんでした。(ただし、大友皇子は壬申の乱で大海人皇子に敗れ、高市皇子は持統天皇より先に亡くなって、どちらも天皇にはなれなかった)
その太政大臣という地位に天皇の後継者にはなる資格の無い、藤原氏からの登用が行われたというのは、この地位の本質的変貌を意味します。つまり天皇の後継者ではなく、天皇の代理者ということになるわけです。
藤原良房は藤原北家の地位を確立した藤原冬嗣の子で、養子(甥)の基経とともに、その地位の更なる向上を目指していました。まずは妹の順子を仁明天皇に入内させて生まれた道康親王を承和の変のあと皇太子にすることに成功。これが文徳天皇。次いで娘の明子をこの文徳天皇に入内させ生まれた惟仁親王を皇太子にしています。この時文徳天皇としては本当は惟喬親王のほうを皇太子にしたかったらしいのですが、良房の推薦で自分が天皇になった弱みがあるため、これを拒否できなかったといいます。
そして良房が太政大臣になった翌年、その文徳天皇が急死。惟仁親王が践祚して清和天皇となります。文徳天皇については暗殺説もありますが、それは疑問との意見も多いようです。良房としては別に殺さなくても退位させる理由はいくらでも作れたはずです。
そして良房は更にこの清和天皇に養女(姪)の高子を入内させ、生まれた貞明親王を皇太子にします(後の陽成天皇)。
こうして藤原家の力によってその地位を得た天皇たちは、恩のある藤原家には逆らえませんので、ここに良房・基経親子の地位は盤石のものとなっていきました。
なお、藤原高子は伊勢物語にも描かれているように在原業平が盗み出した姫です。また、藤原良房は宇津保物語の藤原太政大臣のモデルと思われます。