天慶2年(939)12月15日、平将門が『新皇』に就任したことを宣言しました。
この時代は朱雀天皇の治世。平安時代の前半の終了をつげるのが、平将門・藤原純友の乱でした。
宇多天皇・醍醐天皇による安定した治世が菅原道真公の祟りと言われた清涼殿落雷で終了。急死した醍醐天皇のあとを受けて朱雀天皇は即位しました。
その即位の前年、平将門は藤原氏以外出世できない都の状況に絶望し、郷里の下総に戻っていました。
ところが将門が都に上る前に伯父の平国香(平清盛や北条時政の先祖)に預けていた領地を、国香が返してくれません。交渉はなかなか進展せず、更に別のもめごとも加わって、とうとう承平5年2月、両者は武力衝突。国香が敗れて自刃しました。ここから承平天慶の乱が始まります。
桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望+−平国香−平貞盛……平清盛・北条時政など|+−平良兼|+−平良将−平将門
これに対して国香の子の貞盛は国香の弟の良兼と図って将門の軍をいったん破りますが、将門はまもなく再起。再び貞盛たちを撃破します。
ここにおいて貞盛らは、将門の非道を都に訴えます。将門も反論しましたが、貞盛の方の言い分が認められ、将門側が非とされてしまいます。この時は将門は朱雀天皇の元服に伴う恩赦、ということになり、すぐに関東に戻ることができます。
しかしその後も将門と貞盛との対立は続きます。一方で将門は関東内での色々なもめごとの調停などをやる羽目になりますが、その流れの中で常陸国の国府と対立した興世王や藤原玄明をかくまったことから、常陸国府とも対立。ついにこれも武力衝突に発展して、将門軍が国府軍を破ってしまいます。
その間にも貞盛は中央で政治工作を続け将門を捕らえる旨の命令を関東諸州、ついで駿河・伊豆・甲斐などの周辺国にまで発せさせることに成功します。
これに対して将門はこれまでの経緯を太政大臣・藤原忠平に書いて送りますが、この弁明は認められませんでした。しかし都側の討伐軍もどうしても将門を捕らえることはできません。
困っている将門のもとを、ある日ひとりの不思議な巫女が訪れました。巫女はお告げして、将門は天皇の血を引く者であるから、帝になる権利があるといったことを言います。
ここで天慶2年(939)12月15日の『新皇』宣言に至るのです。
すなわちこれは、関東の独立宣言でした。
将門はこれまでに、上野・下野・常陸を既に実質的に支配下においていました。これに対して都では折から西海でも藤原純友が謀反を起こし、ドタバタする中、万策尽きて、老齢の藤原忠文を征夷大将軍に任命、将門討伐に向かわせます。また、遍照寺の寛朝に命じて将門調伏の呪術を施させます。
寛朝は高雄山神護寺の不動明王像を借り受け、関東へ持っていって千葉の地で、調伏を行いました。
一方何度も将門にやられている平貞盛も、藤原忠文の軍が来る前になんとか決着を付けるべく、藤原秀郷(俵藤太の名前の方が有名か。大百足退治の伝説などを残す。奥州藤原氏や西行などの先祖)とともに、将門の行動を追跡します。
そしてついに天慶3年2月14日、将門が猿島北山(現茨城県岩井市)で、わずかの兵とともに移動しているところを急襲、これを破って将門を殺害しました。
新皇宣言ののち、わずか2ヶ月のことでした。
将門の活動は、中央の植民地的存在であった関東の人々に希望を与えました。そこでこのあと関東では将門は英雄として祭り上げられていき、江戸幕府に至っては江戸および関東の守護神とみなされるようになりました。
将門の首は都に送られ獄門にさらされますが、その首は空を飛んで関東に戻ったとされます。その首が落ちた場所が、現在の東京駅近くの「首塚」で、後には当時近くにあった神田明神に合祀され、人々は将門の霊を弔いました。
その後、江戸時代になってから神田明神は現在地に移転され、江戸城の鬼門封じと江戸の町の守護の役割が与えられます。
なお、将門調伏のために関東まで持ってきた不動明王像ですが、この像を京都に持って帰ろうとしたら「動いてくれなかった」ため、その場所に寺を建てて、この像をそのまま祀ることになりました。これが現在の成田山新勝寺です。
一方、将門の新皇宣言の直後に西海で乱を起こした藤原純友のほうは、天慶4年6月に討ち取られ、これで承平天慶の乱は終結します。
この乱の間には、承平4年7月と天慶元年4月・8月の大地震、承平7年の富士山噴火なども起きています。元々優しい性格の朱雀天皇には心労多いことばかりで、天慶9年、天皇は弟の成明親王に位を譲って(村上天皇)退位しました。
ここから平安時代後半が始まり、安倍晴明、藤原道長・頼通、らが活躍する時代がやってきます。