大同5年(810)9月10日、嵯峨天皇は藤原薬子を宮中から追放し、その兄の仲成の身を捕えました。この前後の一連の動きを、一般に薬子の変と呼んでいます。
藤原宇合(式家)|+−−−−−−−−−−−−−−−−−−+−−−+−−−−−−+| | |藤原百川 光仁天皇=高野新笠 藤原良継 藤原清成| 49 | | |+++ 桓50 | || 旅子======武 | |帯子 | 天========藤原乙牟漏 |(平城妃) |藤原吉子=皇 | 藤原種継|(南家)| | || 伊豫親王 +−−+−−−−−−+ +−−+−+53 | 52 | 51 | | |淳和天皇 橘嘉智子=嵯峨天皇 伊勢継子=平城天皇=藤原薬子 藤原仲成| |54仁明天皇 高岳親王(真如)
この時代は藤原式家の時代です。元々式家の百川が吉備真備らの意見を抑えて光仁天皇を誕生させたため、この後で北家が台頭してくるまでの間、式家の人々が政権に強い影響力を与えており、その式家内部でもかなりの抗争が行われていました。
そんな中、平安京を作った偉大な帝王・桓武天皇が亡くなり、後を平城天皇が継ぎますが、この即位した時点で既に百川の娘である皇后の帯子は亡くなっていました。
そんな中、後宮では藤原薬子が力を付けてきます。本来は薬子と前夫との間の娘が皇太子時代の平城天皇に入内し、薬子はその付き添いで後宮に来ただけなのですが、いつの間にか娘はそっちのけで母親の方が平城天皇と愛し合うようになってしまい、桓武天皇在命中はふしだらなこととして一時期後宮から追放されていました。しかし桓武天皇が亡くなると再び後宮に戻り、仲が復活したのです。そしてこの薬子のお陰で、式家の中でも薬子の兄の仲成が権勢をふるうようになっていました。
ところがこの平城天皇は病弱で、天皇在位わずか3年にして執務不能状態に陥り、同母弟の嵯峨天皇に位を譲ります。そして自らは保養地に引きこもって病気療養に務めました。ところがそうしていると上皇はどんどん体調が回復して来て、再び政治の表舞台に出たいと思うようになります。
上皇は桓武遷都により捨てられ荒れていた町、平城京に行き、そこに宮を作って住むようになります。するとそこに上皇の復権を願う薬子や、平安遷都によって権益を失った旧勢力などが集まってきます。最初は黙殺していた天皇側も段々と神経をとがらさざるを得なくなってきます。
そしてついに9月6日、平城上皇は「平城京に遷都する」という詔を出します。下手すると内戦が勃発するところでしたが、嵯峨天皇は素早く動きました。上皇側が戦役の準備を整えることができる前に、すみやかに関所を封鎖。地方から兵力が集まるのを防いでおいて、9月10日、藤原仲成を捕らえ、薬子は内侍司の長官の地位を剥奪して追放処分にしました。
これに対して上皇側も手近な兵を集め、いったん東に出て体制を整えようとします。しかし天皇側はそうはさせじと11日、仲成を処刑した上で、征夷大将軍・坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させ、先手を打って上皇軍の進路を阻みます。坂上指揮下の軍が実戦経験豊富で統制の取れた精鋭であったのに対して、上皇側は急拵えの軍でした。いったんは対峙したもののかなわないと見た上皇は平城京に戻り、乱は終了しました。12日薬子は自殺、上皇は剃髪して仏門に入ります。
この変の結果、平城天皇の皇子で、この時皇太子であった高岳親王は連座して皇太子の地位を失います。彼はやがてこの前後から急速に注目されるようになっていた名僧空海(弘法大師)の門を叩き、厳しい修行に耐えて真如と呼ばれ空海の高弟となります。彼は後に仏教の故郷を訪ねようとインドへ向かいますが、途中密林で虎に襲われて死亡します。
その空海は嵯峨天皇に重んじられて、日本に真言密教の基礎を築きました。彼は仏教を重視した桓武天皇の時代に中国に渡りましたが、戻ってきてみると平城天皇の御代になっており、平城天皇はあまり仏教を重んじなかったため九州の地で資料の整理を行っていました。しかし嵯峨天皇に代わると天皇は仏教を大事にしたため、空海に都に出てくるよう命が下ったともいわれます。
そして嵯峨天皇は空海に即身成仏とはどんなものかと尋ねます。すると空海はその場で印を結び何やら真言を唱えました。その時嵯峨天皇の目には確かに大日如来の姿が見えたといいます。そのことから天皇はこの一介の留学僧である空海を信用し、上皇をそそのかしている者たちの調伏を依頼するのです。空海もそれにこたえて密教の修法を始めます。
そして余り多くの血を流さずに無事乱が平定され、天皇が敬愛する実兄の平城上皇自体にはあまり傷が付かず、薬子と仲成が全ての責任を負って死にました。このことで天皇はまた空海に感謝し、ますます彼を保護するようになっていきます。
その天皇の名前から嵯峨野と呼ばれるようになった京都北部の静かな地に立つ天皇の別邸(現大覚寺)には、空海や最澄らを初めとする多数の文化人が出入りしました。皇后の従兄である橘逸勢・空海・嵯峨天皇の三人はその中でも特に書がうまく、三筆と呼ばれました。