保元元年(1156)7月11日未明、後白河天皇の命を受けた平清盛・源義朝らが崇徳上皇の命を受けて事を起こそうとしていた源為義・源為朝・平忠正らの集結場所を急襲。これを制しました。
これが世に名高い保元の乱で、これにより長く続いた平安の世は終りを告げ、武家の政治へと時代は動いていきます。
ここに至るまでの約80年間の動きを順に見ていってみましょう。
(1)院政の再開
藤原一族の権力は道長・頼道親子の時に最高を極めますが、頼道が1074年に死去すると、それに匹敵するほどの政治力の持主は藤原家には居ませんでした。そこで時の白河天皇は政治権力を天皇側に戻すため、約200年振りの院政をしくことを決意、1086年にまだ7歳の子供善仁親王に譲位(堀河天皇)、善仁が1107 年に亡くなると更に4歳の孫宗仁親王を帝位に付け(鳥羽天皇)、宗仁が成人して扱いにくくなると更にそれを退位させて1123年ひ孫で4歳の顕仁を即位させます。これが問題の崇徳天皇です。
72白河−−73堀河−−74鳥羽−−75崇徳
(2)鳥羽上皇の院政
1129年に白河上皇が亡くなると、20歳の若さで退位させられて不満この上なかった鳥羽上皇が代って権力をにぎり、白河院と同じことを始めます。1141年 22歳になった崇徳天皇を退位させて2歳の体仁親王を帝位に付けるのです。さて、その近衛天皇は1155年にわずか16歳で亡くなります。
(3)皇位継承の行方
当時の朝廷内の実力者は鳥羽上皇皇后で近衛天皇母の美福門院得子でした。
近衛天皇はまだ子供はありませんでしたので、次期皇位継承者としては崇徳の子の重仁親王と、崇徳の同母弟雅仁親王の子の守仁親王が考えられました。
ここで守仁親王の生母は早逝していて得子が守仁を養育しておりました。更に崇徳上皇は自分から帝位を奪った近衛とその養母得子を当然心良くは思ってはいません。更に守仁はまだ12歳とはいえ、大勢の皇子の中でもひときわ聡明な皇子として評判でした。そこで皇位継承者は守仁親王と決りそうになります。
ところがここで異論が出て、守仁の父の雅仁がまだ健在なのに、どうして、その子供を天皇にするのだ、という議論になります。院政により天皇は子供という常識になっていて気が付かなかったものの言われてみればもっとも。
では、仕方ないから一時的に天皇にしてしまえ、ということで棚ボタ式に「遊芸の皇子」雅仁が天皇になってしまいます。これが後白河天皇です。
この結論に一番驚いたのは後白河自身だったでしょう。むろん、同時に守仁が皇太子になります。当然すぐ皇位は守仁に譲られる筈でした。後白河天皇28歳。文にも非ず・武にも非ずと評された、とんでもない人物が帝位についたのです。
納まらないのは崇徳上皇です。折角次は自分の息子かと思ったらとても天皇の器とは思えない、品格の悪い弟が後を継ぎ、その子供が皇太子になってしまったのです。下手すると自分は埋没していくだけかも知れない。不満と怒りの種は膨らみつつありました。
(4)藤原家内部の争い
ところで同じ頃藤原摂関家でも家督争いが起きていました。藤原忠実は長男の忠通より次男の頼長の方を愛した為、一度は忠通に家督を継がせ近衛天皇在任中忠通が関白を務めますが、事ある毎に引退をすすめます。むろん忠通は拒否。
そしてとうとう1150年、忠実は忠通を勘当して藤原家の氏長者の地位を剥奪、頼長をその地位に付け翌年無理を通して頼長を内覧にしてしまいます。かくして、関白の忠通がいるのに別に内覧もいるという変則的な事態が発生します。
しかし頼長はこの折角の地位をうまく活用できません。その年の夏鳥羽上皇の寵臣である中納言家成と喧嘩し、乱闘騒ぎまで起こして鳥羽の信を失ってしまいます。更に1155年、近衛の後継者をめぐっては兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位。そしてその年の暮、頼長が権力の拠り所としていた妹で鳥羽上皇妃の高陽院泰子が死んでしまいます。
更に悪いことは続いて、どこからともなく近衛天皇が死んだのは忠実・頼長の親子が呪詛を掛けたからだ、などという噂が流れます。頼長の地位は風前の灯になろうとしていました。
(5)零落する武士
かつて源義家は「天下第一の武者」と言われ、たいへんな評価を受けていましたが、その子孫の為義の代になると、清和源氏の地位はかなり凋落し不遇の状態にありました。1154年には息子の源為朝の乱暴が過ぎるとして為義の官位が召し上げになるという事件もありました。
(6)保元の乱
こうして平安時代の終章の幕開けとなる保元の乱が勃発しました。
1156年7月2日。鳥羽上皇が死去。後事を得子と忠通に託します。
翌7月3日。崇徳上皇側に不穏な動きがあります。後白河天皇は崇徳側の勢力が結集するという噂を聞いた場所を先手を打って押えてしまいますが7月5日、崇徳上皇は実際に兵力を集め始めます。
源為義・為朝親子や平忠正らが参じました。為義は1143年頃から頼長の侍になっていました。7月9日夜半から10日夕方に掛けて兵力の集結はピークとなり1000騎に達したといいます。
一方藤原忠通は鳥羽上皇の前で後白河天皇に忠義を誓ってくれていた源義朝や平清盛らを呼び集め、宮中の警備をさせます。決戦は避けられない情勢になってきます。
7月11日未明。後白河天皇側は機先を制して崇徳側の集結場所を急襲。不意を突かれた崇徳側はなすすべなく、戦いは4〜5時間で決着。午前8時頃にはもう全てが終っていました。
この時実は崇徳側の武士たちの間でも夜明けに相手方を奇襲しようという話が出たらしいのですが、誰かが「それは武士の道に反する」と言って、その意見が通ってしまったのだそうです。しかし後白河側は若い武士が集まっていましたので、そういう「道」より目的達成が優先であるとして、夜明けの奇襲を敢行しました。
なお、藤原頼長はこの戦いで矢にあたって死亡。源為義・平忠正は処刑、源為朝は伊豆大島に流されます(後自害)。そして崇徳上皇も讃岐に流されました。
なお、源為義は源義朝の父、為朝は弟、平忠正は平清盛の叔父で、武家側も肉親同士の戦いでした。
(7)崇徳の出生問題
以上は正史に見られる保元の乱の経緯ですが、ここに1つの俗説があります。それは崇徳は実は鳥羽の子ではなく、鳥羽の祖父・白河上皇の子供ではないかという説です。(古事談)
年齢的なものを見てみると、崇徳が生まれたのは鳥羽が16歳の時。非常に若い時の子ということになりますが、後白河も16歳で子供の二条を作っていますから、ありえないことではないでしょう。(もっとも後白河は遊び人ですが)
若干怪しいのは、璋子は鳥羽に嫁ぐまで白河の「養女」であったということでしょうか。また鳥羽・白河・璋子は非常によく3人セットで行動していたという記録もあります。
この問題の真偽は今となってはもう分からないでしょう。しかし、もし本当に崇徳が白河の子であれば、鳥羽から見ると崇徳は不義の子であるとともに自分から皇位を奪った者という二重に憎き相手ということになるかも知れません。
(8)讃岐での崇徳上皇
崇徳上皇は讃岐に流された後、後白河朝廷に対する激しい恨みをあからさまに表現します。
「我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、自らの血で大乗経を書き、「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならん」と言って、その経を瀬戸内海に沈めて呪詛をしたと言います。そしてその後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい形相になっていったと言います。
都では上皇の不穏な動きを聞くに付け、状況調査の為平康頼を派遣しますが、康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告しています。
(9)暗殺?
崇徳上皇は保元の乱の9年後に45歳で没しています。死因は特に語られていませんので病死と思われますが、ここに暗殺説というのが昔からあります。
伝説によれば暗殺を実行したのは二条天皇の命を受けた讃岐の武士三木近保であったとされます。(讃州府誌)
崇徳上皇は最初長命寺に居ましたが、3年目に木丸殿に移っています。刺客が襲って来たとき上皇は柳の洞穴に隠れますが、三木近保は池に映る御姿を見て、切り付け弑し奉ったといいます。その地はその事から柳田といいます。
上皇の遺体は葬儀に関する指示を待つ間八十場の霊泉に20日間漬けていたとされますが、その間全く様子が変わらず生きているかのようであったといいます。こういう話が伝わるのも如何に上皇の怨念が凄まじかったかということを伝えるものでしょう。
(10)雨月物語・白峯
雨月物語の冒頭「白峯」の章では、崇徳天皇陵(81番札所)にやってきた西行法師が読経をし、魂をなぐさめるために和歌を詠むと崇徳の霊が現れて会話をするという場面が見られます。
重なる恨みを語る崇徳に対して仏法で理論的に反論する西行。二人の会話は噛み合わないまま夜は更けていきます。既に大魔王のような風をしていたという崇徳ですが、少しでも魂のやすらぎになったでしょうか。
(11)後白河という人
保元の乱を見ていると、崇徳・頼長側というのは、どうもゆったりした動きをしているのに対し、後白河・忠通側は常に先手・先手を打つ決断と行動力を見せます。のちの平清盛・源頼朝などとの渡り合いなどを見ても、たとえ初期に忠通の適切な助言があったとはいえ、後白河という人は非文非武どころか、若いうちから非常に老練な人物だったのではないかと思わせます。
【白河天皇シラカワ(72)貞仁 】1053-1129 在位1072-1086。後三条天皇の第一皇子。 【堀河天皇ホリカワ(73)善仁タルヒト】1079-1107 在位1086-1107。白河天皇第二皇子。 【鳥羽天皇トバ (74)宗仁ムネヒト】1103-1156 在位1107-1123。堀河天皇第一皇子。 【崇徳天皇ストク (75)顕仁アキヒト】1119-1164 在位1123-1141。鳥羽天皇第一皇子。 【近衛天皇コノエ (76)体仁ナリヒト】1139-1155 在位1141-1155。鳥羽天皇の皇子。 【後白河天皇ゴシラカワ(77)雅仁】1127-1192 在位1155-1158。鳥羽天皇の第四皇子。 【二条天皇ニジョウ(78)守仁モリヒト】1143-1165 在位1158-1165。後白河天皇第一皇子。 【藤原忠実タダザネ】1078-1162 師通の子。摂政・関白。 【藤原忠通タダミチ 】1097-1164 忠実の長子。摂政・関白、太政大臣。 【藤原頼長ヨリナガ 】1120-1156 忠実の二男。左大臣。通称、悪左府・宇治左大臣。 【源為義タメヨシ】1096-1156 義家の孫。義朝・為朝・行家の父。六条判官。 【源為朝タメトモ】1139-1170 為義の八男、義朝の弟。鎮西八郎。 【源義朝ヨシトモ】1123-1160 為義の長男、為朝・行家の兄。 【平清盛キヨモリ】1118-1181 忠盛の長男。白河法皇の落胤との説あり。 【美福門院ビフクモンイン得子】1117-1160 鳥羽天皇の皇后。藤原長実の娘。近衛天皇の母。 【皇嘉門院コウカモンイン 聖子】1121-1181 崇徳天皇の皇后。藤原忠通の娘。