綱吉将軍就任(1680)

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延宝8年(1680)8月23日、徳川綱吉が江戸幕府の第5代将軍に就任しました。

前将軍・家綱の異母弟。この年、将軍家綱が重い病の床に就き、亡くなるのは時間の問題と見られました。家綱には子供がなかったため、その後継をどうするか、幕閣の間で意見が分かれます。

家綱の第一の側近である、老中・酒井忠清(下馬将軍)は家康公の直系の血筋が途絶えてしまう以上、鎌倉幕府の例に習い、京都より親王を将軍に迎えることを提案します。

これに対して、同じく老中・堀田正俊は血は完全に途絶えた訳ではなく、まだ将軍の弟である館林の綱吉公がいるではないかとし、これを呼び戻して継がせることを主張しました。しかし実際酒井が無視しようとしたほど、綱吉はあまり将軍の器には見えなかったようです。

老中会議はかなり微妙であったようですが、結果的にはやはり血筋を重視すべきという堀田の主張が実力者の酒井の意見を抑えて多数意見となり、館林十五万石の城主に納まっていた綱吉は江戸に急遽召喚。病床の家綱の養子となって、そのあとをつぐこととなりました。

綱吉は就任後、ただちに酒井を解任。自分を立ててくれた堀田を大老に任命して、数々の政治改革を断行します。この成果はやがて上方を中心とした元禄文化となって結実。町は活気づきました。

しかし、綱吉の政治が素晴らしかったのは、堀田の在命中だけでした。堀田が貞享元年8月に亡くなってしまったあと、しばらくはその路線の政治を直接指導しますが、やがて側用人・柳沢吉保を登用すると、数々の悪政を始めます。とりわけ悪評が高いのは、生母・桂昌院に勧められて貞享4年に始めた生類哀れみの令です。

最初、綱吉がイヌ年生まれだからということで、犬を大事にするよう、触れを出すのですが、その後、これがエスカレート。あらゆる動物の殺傷が禁止され、蚊をつぶしただけで隠居を命じられる者も出る始末。むろん犬を殺したりしたら死罪が待っていて、この法律は『人間以外の』動物を大事にするという、とんでもない法律でした。

あまりのことに、水戸徳川家の徳川光圀(水戸黄門)は、綱吉の所に虐殺した犬の死体を持っていき、ショックを与えた上で、ただちにこの悪法を停止するよう諫めましたが、綱吉はこれに関してだけは、光圀のいうことを聞きませんでした。

町には野犬がわがもの顔で歩き、その犬を収容して、餌を与えるための施設がどんどん増設されます。

結局、この前代未聞の悪報は宝永6年(1709)に綱吉が亡くなるまで22年間も続きます。綱吉も子供がなかったため、兄・頼重(早く亡くなった)の子供の家宣が将軍職を継ぐことになりますが、綱吉は家宣に「私が死んでも数年はこれを継続して欲しい」と言い残します。

しかしもちろん家宣は綱吉が亡くなると即、生類哀れみの令の廃止を命じました。


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