元和3年(1617)2月21日、徳川家康は東照大権現の神号を朝廷から受けました。
徳川家康は三河の岡崎城主松平広忠の長男として天文11年(1542)年に生まれました。幼名は竹千代で元服してのち元信、元康、家康と改名していきました。徳川の姓は1566年から使用しています。
彼は幼くして人質として今川家や織田家に身を預けられていました。この松平家は初めは今川義元の軍の露払いのような仕事をさせられ戦さの度に家臣に多大な犠牲者を出しながらもそれに耐え抜きます。そして今川が桶狭間で破れた(1560)あと、今度は織田信長に仕え(1561)、羽柴秀吉・明智光秀・前田利家らとともに織田の天下統一に尽力します。しかし、この時代にも信長の命で妻と長男信康を自らの手で殺害する羽目になる(1579)など、また苦痛の日々もありました。(この事件に関しては種々の疑問がある。下記参照) http://www.anecs.net/social/history/nihon-sen/tukiyamadono.htm
やがて本能寺の変(1582)により天下が織田から豊臣の手に移るとその力を恐れられて関東八国の長に封じられ江戸城に移ります(1590)。しかしその仕打ちにも耐え続けて、とうとう豊臣秀吉亡き(1598)後、その子供秀頼をいだく勢力を関ヶ原の戦い(1600)で破って、征夷大将軍に就任(1603)、徳川250年の栄華の基礎を作りました。
家康は将軍就任のわずか2年後に将軍職を3男の秀忠に譲り(1605)、徳川家が代々将軍家を継いでいくぞ、と豊臣に誇示します。そして、大阪冬の陣(1614)・夏の陣(1615)で大阪城を落として豊臣家を滅亡させました。
その家康も年には勝てません。1616年1月体調を崩します。4月16日死後は神式で駿河の国久能山に葬るよう遺言し、翌17日死去。75歳。
さて、ここでわれらが天海僧正の出番です。天海は若いころは随風といい、比叡山で修行して密教の秘法を修得し、1608年から家康に仕えたとされますが1582年(武田が滅び明智光秀の死んだ年)頃から実際には陰で家康を支えていたという説もあるようです。そのため天海は実は明智光秀なのではないかという説まであります。(ジンギスカンの源義経説並の信用度だと思いますが)
その出自はよく分からず年齢もはっきりしませんが、日光に残る墓の紋などからも室町幕府の足利家の血を引いていたようです。この人に関しては伝説的な部分が大きく、浅野長政・加藤清正・真田昌幸・前田利家らを大阪冬の陣・夏の陣を前にして呪殺したのではないかという話なども当時流れていたようです。
さて家康が没して数ヶ月がたち、久能山の墓所の整備も進む中、家康の神号のことが問題になります。むろん建前としては朝廷が授ける物ですが実際の決定権は幕府にあります。これに関してやはり家康に重用されていた臨済宗の崇伝は常識的に明神として吉田神道で祭ることを進言します。これに対して天海は山王一実神道で権現として祭るというのが家康公の遺言であったと主張しました。
さてこれで騒然となります。そんな遺言は天海以外は誰も聞いていませんし、そもそも誰も山王一実神道などという神道も聞いたことがありませんでした。将軍秀忠は自分の前で崇伝と天海の二人に論争をさせました。なかなか議論はかみ合いませんが、最後に天海が言った一言が全てを決定させました。「明神は不吉にございます。豊国大明神をご覧下さい」
豊臣秀吉は豊国大明神として京都阿弥陀ヶ峰に祭られていましたが、その豊臣が滅亡した今、確かに明神に問題があると言われれば否定はできませんでした。
そこで家康の神号は東照大権現と決まり、1617年2月21日朝廷から正式に伝達されます。そして更に天海はまだ久能山の墓所も完成しない前にやはり家康の遺言と称して同年4月8日これを日光に改葬、ここに華麗な日光東照宮が建築されることになったのです。