8.18政変(1863)

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文久3年(1863)8月18日、京都で俗に「8.18政変」と呼ばれる無血クーデターが起こりました。

当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていました。彼らは長州と結び、外国に門戸を開けてしまった幕府を倒して天皇の親政を実現すべきだと考えていましたが、当の孝明天皇はむしろ朝廷と幕府が協調していこうという公武合体派でした。そこで孝明天皇は中川宮に密かに指令を出してクーデターを決行します。

8月18日深夜1時。中川宮、近衛忠熈、二条斉敬、松平容保、稲葉正邦らが密かに参内、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護されました。

そして、その中御前会議が開かれ、攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決されました。異変に気づいた三条実美らが駆けつけますが中に入ることはできず、長州兵もいそぎ堺町門へ行きますが会津藩の兵とにらみ合いになったまま近寄ることはできませんでした。

攘夷急進派はやむを得ずいったん長州へ退いて再起を期すことにします。そして19日、三条実美ら七人の公家が長州へと下っていきました。(七卿都落ち)

このあと朝廷には徳川慶喜・松平春嶽・島津久光・山内豊重・伊達宗城・松平容保が集まって参頂会議を開き、これからしばらくは朝廷の主導権は公武合体派が握ります。

その後の歴史も少し追いかけておきます。

翌年長州は武力で京都に攻め入って来ました(蛤御門の変)。しかし会津藩の兵力にはばまれて失敗。戦闘を指揮した家老たちが切腹、参謀数人が斬首となって、やっと許されます。しかしここで亀山社中の坂本龍馬が長州と薩摩の間を奔走して両者に劇的な連合を組ませることに成功、ここで事態が逆転しはじめます。

慶応2年、将軍徳川家茂が急逝。孝明天皇の厚い支持のある慶喜が将軍職をつぎますが今度はその慶喜と一緒に事を進めていくはずであった孝明天皇が亡くなります。表面上の死因は食当たりとなっていますが暗殺説が根強いようです。

天皇の地位は弱冠16歳の明治天皇がつぎ、「ええじゃないか」が全国を東海道を東進、打つ手がなくなった慶喜は大政奉還して江戸幕府はその歴史を閉じます。そのあと起きてしまった戊辰戦争では会津藩はあまりにもひどい攻撃を受けますが、これは会津藩に恨みを持つ長州の意趣返しでした。天皇の意向で動いていた会津藩に対してそこまでやったことは、明治政府が天皇親政ではなくその名を借りて長州薩摩幕府を意図していたことを明白にしています。


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