坂下門外の変(1862)

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文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が水戸浪士らに襲われました。

水戸浪士たちは2年前にも桜田門外の変を起こして大老・井伊直弼を殺害しています。大名の当主が跡継ぎを定めないまま亡くなれば本来はその藩はお取り潰しです。しかし井伊直弼の彦根藩は家康の四天王・井伊直政を祖とし、京都を守護する役目を持つ重要な親藩。絶対に潰す訳にはいきませんし、もし潰したら浪人となった彦根藩の武士たちが水戸藩に報復するのは必至で、親藩と御三家の戦争が勃発する危険さえありました。

その時「大老はまだ生きておられる」と言い、井伊直弼は亡くなっておらず怪我しただけということにして、急ぎ彦根藩を説得し、跡継ぎを定めてから、直弼の死を発表させたのが、この安藤信正でした。

阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼といった優秀な人材が次々と幕閣を去った今、安藤にもしものことがあれば、この時点で即幕府は消滅していたかも知れません。

しかし安藤は2年前の直弼の轍は踏みませんでした。駕籠のまわりには警護の武士が50名ほどおり、桜田門外の時のような奇襲攻撃は許しませんでした。安藤は背中に軽い傷を負っただけで無事。襲撃者たちは全員その場で斬り殺されました。

しかしこの事件が起きたこと自体の責任を問われた安藤は4月に老中を辞職する羽目になります。その後幕府の中では一橋慶喜の力が強まり、5年後の幕府倒壊に向けて動き出してしまいます。


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