大阪夏の陣(1615)

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慶長20年(1615)5月7日、大阪夏の陣の最終決戦が大阪城南方の茶臼山・岡山付近で行われました。

豊臣方の主兵力がこの戦いで壊滅。勝負はほぼ決しました。

1600年関ヶ原の戦いで石田三成らの勢力が徳川家康を中心とする勢力に破れ、天下は豊臣家から徳川家に移ります。1603年には家康が征夷大将軍に任じられ、名実ともに家康は日本の支配者となりました。豊臣家は事実上、大阪を領地とする一大名の地位に落ちます。

しかし、豊臣方では大阪城の事実上の主である淀君(茶々)らは、家康はまだ秀吉の子の秀頼が幼いからいったんは家康が将軍になっただけで、次はまた豊臣である、などという甘い考えを持っていました。そしてまだこの時点では家康側も豊臣がこの後大きな反抗をするとは考えておらず、融和策の一つとして、孫娘の千姫(当時7歳)を秀頼(同11歳)に嫁がせるなどの策を取ります。

しかし豊臣方が一向に徳川家を天下人として認めないことにいらだった家康は、はっきりしたデモンストレーションとして、1905年将軍職を自分の息子の秀忠に譲るという行為に出ました。今後の将軍職は徳川家が代々継いで行くのだということを全国に宣言した訳です。これに対して淀君は驚くとともに態度を硬化させ、両者の緊張は高まります。

しかし1611年、17歳になった豊臣秀頼は京都の二条城に家康を訪問。両者の会談によって豊臣側は一大名としての地位を確認、いったん緊張は表面的には緩和されます。しかし母親の淀君にはそれは我慢のならないことでした。そして家康側も、決戦は近いという感触を持ちます。

この年、豊臣は秀吉の建てたお寺・方広寺に大仏殿を完成させますが、ここに梵鐘を作ることになります。この梵鐘には、国家安康・君臣豊楽の文字が刻まれました。それを聞いた家康は、豊臣を攻める口実ができたと考えます。

「国家安康」は「家康」の文字を2つに切って徳川家を呪うものであり「君臣豊楽」で豊臣家が再び君主になろうという意図を秘めたものだ、という訳です。こんな文字を刻む方もアホですが、古来戦争の始まりには、相手の何気ない言葉が利用されてきました。かつて崇峻天皇は献上された猪を見て「この猪の首を落とすように、あいつの首も落としてやりたいものだ」などとつぶやいて、その「あいつ」こと蘇我馬子の兵力に正当防衛として殺害されてしまいました。

かくして1614年11月、大阪冬の陣が起きます。戦況は真田幸村らの軍が一人気を吐いた他は徳川側の優勢のまま和議へ。和議の内容は書面で交わした分には非常に豊臣側に有利なものでした。淀君も満足だったのですが、その時に口約束で、大阪城の外堀を埋めることを豊臣側は同意しました。しかし、この口約束というものがくせ者でした。

工事が始まると豊臣側はびっくりします。徳川側が外堀だけでなく内堀まで埋め始めたからです。当然抗議しますが、きちんと書面で交わしたものではなく口約束であったために、豊臣方の主張を徳川方はのらりくらりとかわし、かわしている間に、きれいに工事は終わってしまいました。かくして大阪城は完全に裸城になってしまいます。

そして、春4月。その裸城になった大阪城に対して、家康は諸大名に攻撃を命令。4月26日、大阪夏の陣が開戦しました。

二重の堀に守られて徳川方が攻めあぐねた冬の陣と違って、夏の陣では豊臣方も籠城している訳にはいきません。たびたび外に打って出ますが、戦況は厳しく、5月6日頃にはだいたいの勝敗が見えてきました。ここで徳川方は7日に家康の孫娘・千姫を厳しい淀君の監視下から城外に脱出させることに成功。そしてこの日、最後の決戦も行われました。

この戦いで、散々徳川を苦しませた真田幸村も戦死。豊臣方の主戦力も壊滅して、完全に勝負は付きました。

そして翌日の昼頃、淀君と秀頼の母子も自決。豊臣家は滅亡してしまいます(秀頼の遺児国松は捉えられて23日に処刑)。1582年の本能寺の変の後秀吉が天下を取ってからわずか33年のことでした。


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