文久2年8月21日、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で「生麦事件」が起こりました。
薩摩藩主の父・島津久光はこの年3月1000人の武士を率いて京都に上り、公武合体のために活動を始めます。4月23日には寺田屋事件を起こして自藩の尊皇攘夷派を文字通り切り、5月には大原重徳を勅使にたてて一緒に江戸へ向かい幕府に種々の改革を迫ります。そしてこの日一通りの役目を終えて京都へ戻ろうとしていました。久光の護衛の武士はこの時400人ほどいました。
一行が生麦村にかかった時、たまたま川崎大師を見物に行こうとしていたイギリス人4人が乗馬のままこの行列の前を横切りました。彼らは大名行列の前を馬に乗ったまま横切ることが極めて無礼な行為であるということを知りませんでした。
一人の武士が、こんな所を通ってはいけない、と注意したのですが、もっと気の短い一人の武士は4人に斬り掛かっていきました。そうするとそれに続いていく者も出てきて結局4人のうち1人が死亡、2人がけがをし、もう一人も帽子と髪の一部を切られました。
命からがら逃げてきた3人から事情を聞いたイギリス人たちがその大名行列にすぐさま報復をという騒ぎになりますがイギリス代理行使のニールがみんなを抑え外交ルートでの決着を図ります。ニールは4人が被害にあった場所はイギリス人が遊歩することを許可された地区であったとして幕府と薩摩藩に謝罪と犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求します。これに対して幕府は何とか穏便にと賠償金を支払いますが、薩摩藩は犯人は不明であるとして要求を拒否しました。
このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾でイギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘が起きました。「薩英戦争」です。
この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕しますが薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリアラス号に多大の被害を与え艦長を死亡させます。結局大勢としてはイギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名でした。この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に仲がよくなって、維新への流れが加速することになります。