安政2年10月2日(西暦1855年11月11日)夜十時頃、八丈島付近を震源とするM6.9の地震が発生。世界最大級の都市・江戸が大きく揺れました。地震自体による被害はそう大きくなかったものと推定されますが、直後に多数の火災が発生、大きな火事となって死者は4000人(1万人とも20万人と書いてある本もあるがそれは恐らく誇大。振袖火事でも10万人です)に達しました。
この安政江戸地震を一般に「安政の大地震」と呼んでいますが、地震の規模からいくと前年の3連地震の方が巨大でした。
安政元年11月4日 M8.4 震源=遠州灘沖(愛知・静岡の南)『安政東海大地震』 安政元年11月5日 M8.4 震源=潮岬沖 (和歌山・徳島の南)『安政南海大地震』 安政元年11月7日 M7.4 震源=豊予海峡(大分と愛媛の間)
恐ろしいことにわずか4日間のあいだに巨大地震が3つも起きました。近畿地方では4日の地震の直後に5日の地震、四国地方では5日の地震の直後に7日の地震が起きていて、いづれも両方の地震の被害が区別できないほどです。この3つの地震の死者は合計で軽く1万人を越えているのではないかと思われます。
さて、安政江戸大地震では、大都市の地震だけにたくさんの瓦版がつくられ、また震災前後の話を収録した地震誌も多数出ているようです。その中にはたとえば次のような予兆現象なども記されています。
地震の4〜5日前に浅草で突然地下水が湧き出した。 前夜と当日朝に地震雲が観測された。
この地震の1月ほど前、黒船来航に揺れて社会的にも不穏な世の中の行く末を見極めようと易の卦を立てた人物がいました。出た卦は「離為火」。
火事だ。そう直観した彼は材木の大量買い付けに走ります。そして1月後、占い通り火事が起きて彼が買った材木はきれいに売れてしまいました。これによって大きな富を得た彼は、その後鉄道事業・旅館経営などで更に資産を形成していきます。また彼は旅館の関係で明治政府の要人たちと知り合うようになり、結果的には明治政府のブレーンの一人となりました。
彼の名前は高島嘉右衛門。明治の易聖と言われ、彼の名前は現在でも多くの占い鑑定所・運勢暦出版社がそれを冠にしています。(実際には全て高島嘉右衛門とは無関係です。)