隋の天下統一(589)

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589年2月10日、隋の揚堅(文帝)が江南の陳を滅ぼし、天下の統一を実現しました。(隋の暦、開皇9年の2月10日のことだと思うのですが、まだ確認が取れていません。すみません)

漢帝国が220年に滅んだあと、世は三国(魏・呉・蜀)時代になり、その後いったん晋が天下を統一(280〜304)しますが、すぐに滅んでその後、多数の国家が乱立する五胡十六国時代を迎えます。その中からやがて魏・宋の南北朝時代(439〜535)が少しありますが、それらも100年ほどで崩れ、宋の後には斎、梁、陳などができ、魏は東西に分裂した後、東魏が斎、西魏は周にと代わります。

揚堅はこの周の宰相の子で、娘の麗華を周の武帝の子(後の宣帝)に嫁がせ、外戚として国の実権を握ります。577年にはまず斎を倒して北部統一。その勢いに乗って578年には帝位を宣帝に譲らせ、更には宣帝と麗華の子の静帝(揚堅の孫)に譲らせ、そして更にその静帝から譲位されるという形をとって581年、自らが帝位にあがりました。

そして587年に梁を倒し、589年に陳を倒して、晋から数えても280年、漢から数えれば350年ぶりの安定した天下統一を成し遂げました。

しかしその文帝も、息子が自分を廃しようとしていることに気づき、それを捕らえようとしますと、逆襲をくらって殺されてしまいます(604年)。

その親を倒して2代目皇帝になったのが、名高い煬帝(ようだい)で、聖徳太子からの『日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なしや?』の手紙を受け取って「何様と思ってるんだ!」と怒った人です。それでもきちんと礼を尽くして返事をしたのは、さすが大人物ですが。


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