漢の高祖5年(BC202)2月3日甲午。高祖・劉邦が皇帝の位に上がりました。それ自体中国民族の代名詞にもなっている漢帝国の始まりです。
【簡単な復習】中国のこの付近の歴史を簡単におさらいしておきます。古代の帝国夏の後、殷(商とも)が興り、これがやがて周の武帝に倒されます。この時代のことを太公望などを中心に描いた物語が封神演義です。
この周がやがて倒れて、春秋・戦国の世がやってきます。その時代に孔子や老子、また鼎の軽重、呉越の戦い(臥薪嘗胆・傾城などの話)、合従連衡、孟嘗君、などのエピソードが登場します。しかしその戦乱をやがて秦が統一。統一を成し遂げた秦の王は初めて「皇帝」を名乗り、これを秦の始皇帝といいます。
しかし始皇帝の後、秦はあっという間に崩壊してまた戦乱に。それをまとめたのが項羽と劉邦で、この良きライバル2人はある時は協力し、ある時は敵対しながらも一緒に国を統一。そして最後の戦いを劉邦が制して漢帝国を作った訳です。この漢は400年続いたのち消滅して三国時代がやってきます。三国志や諸葛孔明などはその時代の話ですね。
【生い立ち】さて、劉邦(りゅうほう/liu-bang)は沛(はい/pei)の国の人で字は季です。劉邦の母・媼は堤の上でまどろんでいる時に夢の中で神様と会ったといいます。そこへ夫の太公が行ってみると、寝ている妻の上に龍がいるのを見たといいます。まもなく媼は妊娠、生まれたのが劉邦です。
やがて成人し中年になった頃に役人となり、泗水の亭長に任じられます。この頃、彼が呂公の所に行くと、人相見の心得がある公は彼に大いなる偉人の相があることに気づき、娘を嫁がせることにします。これが後の呂后で、劉邦亡き後の漢帝国の舵取りをすることになります。
さて劉邦がある時、職務で人夫を多数徴用して麗(酈)山という所に送り届ける仕事をしました。しかし途中でパラパラと人夫たちが脱走してしまいます。このままでは目的地に付く頃には誰もいなくなってしまい、自分は責任を問われると思った彼は開き直って、残っていた人夫たちに「自由に好きな所に行っていいぞ」と宣言してしまいました。
すると大半は喜んで去って行きましたが、十数人の者が、そういう劉邦に惚れ込み、あなたの子分にして欲しいと申し出ました。結局彼等が劉邦の最初の部下になります。
【秦の崩壊】その頃、秦の始皇帝が亡くなり、二代皇帝の胡亥が立ちます。しかし始皇帝の圧政に苦しんでいた人たちはこの機会に新しい秩序を作ろうと立ち上がりました。最初に反乱を起こしたのが安徽省付近で兵を起こした陳渉らです。これに呼応して呉で項梁(項羽の叔父)らが兵を挙げました。やがて陳渉らの軍は秦に制圧されてしまいますが、項梁たちは楚の王族の末裔である心を立てて懐王と称し、天下はこの人の許に付くべきであると呼びかけました。
その頃劉邦たちも半ばなりゆき的に秦の兵と戦い始めていましたが、項梁たちの動きに反応し、会いに行って楚の懐王の下に付くことを誓います。ここから項梁と劉邦は懐王の二大将軍として、秦を倒す戦いを進めていきます。そしてその戦いの中、項梁が戦死。あとを甥の項羽が継ぐことになります。
項梁の戦死で危機感を抱いた懐王は自ら将軍として陣中に入り、有力武将達に自ら指令して各地に赴かせ戦いを進めます。そしてそれぞれの戦いを制して、最初に関中の地を平定した者にはその地を与えると言って発憤を促しました。そこで項羽の軍は北方を、劉邦の軍は西方を攻めます。このとき項羽は強引な戦術を使い敵兵は残らず殺す方式で行ったのに対し、劉邦は適宜相手と和議を結び自分の同盟軍にしてしまう戦略でスピーディーに兵を進めました。
そして結局劉邦のほうが先に関中に入ってしまったのです。この報せを聞いた項羽は怒り心頭に発します。この時、劉邦の部下の曹無傷という者が項羽の所に「沛公(劉邦のこと)は関中で自ら王になろうとしています」と告げたため、項羽が亜父と呼んでいた范増の勧めもあり、劉邦を攻め滅ぼそうとしました。
【鴻門の会】さて、この時劉邦の部下に張良がいましたが、項羽の叔父の項伯は張良と親しかったため、密かに劉邦の陣に潜入、お前まで劉邦と一緒に死ぬことはない。俺と一緒に逃げろと誘います。しかし張良は項羽が劉邦を攻めようとしているという話に驚くと共に、自分は劉邦に命を預けた身だから自分だけ逃げるわけには行かないといい、ぜひ事情をあなたから直接劉邦に説明してくれ、と頼みます。
項伯の話を聞いた劉邦も驚くと共に、自ら項羽の許に誤解を解くためごく少数の護衛の兵だけを連れて赴くことにします。この弁解は認められ、項伯の取りなしもあって、二人は宴を開いて和解します。亜父・范増はこんな所で劉邦を逃しては禍根を残すと考え、項羽の従弟の項荘に剣舞を舞って隙を突いて劉邦を殺すように命じます。しかし劉邦の部下樊噌らの働きもあって暗殺は未遂に終わりました。何とか生還した劉邦は当然、曹無傷を殺します。
【漢に封じられる】やがて戦いも終結すると、項羽は自らが帝位に昇る計画を立て始めます。まず懐王を皇帝に格上げして義帝と称し、次いでこの戦いに功績のあった者を全て王に任じるという指令を帝に出してもらいます。これによって項羽は楚王となり、劉邦には巴・蜀の地を「ここも関中だ」と言って与えて漢王としました。
懐王(義帝)の約束があるので、本来は劉邦には関中を全て与えるべきだった訳ですが、関中を全て与えては脅威がありすぎるというわけで、こういう詭弁を弄したわけです。そして劉邦を封じた土地から東へ通じる地域には項羽に忠実な武将たちを封じて、文字通り道を塞ぎました。
そして、天下が落ち着いたところで項羽は邪魔になった義帝を湖南省に移し、更に殺害させます。こうして項羽は自ら天下人となりました。
【連戦連敗】諸侯が項羽に従っている今、劉邦もいったんは漢の地で落ち着こうとしますがかつて項羽の部下でこの時は劉邦に鞍替えしていた韓信が、劉邦に説いて言います。本当に世の中が完全に落ち着いてしまったら、我々に未来はありません。まだ全国に戦いの余韻が残っている今こそ、項羽に戦いを挑むべきです、と。
そこで漢王劉邦は立ち、まず周辺の国々を平定し始めます。そのころ項羽は北方で背いた斉を討っていました。漢がどんどん進軍してきていると聞いた項羽は急いで兵を返し、{目隹}(睢)水のほとりで両軍は対決します。結果は劉邦の大敗。漢の兵士の遺体で川が埋まって水が流れないほどであったといいます。
劉邦はいったん退いて軍を建て直し、追ってきた項羽の軍と今度は黄河の近くで対峙します。しかし項羽はこれを包囲して兵糧責めを掛けます。これには音を上げた劉邦ですが、相手を弱体化させる罠を仕掛けました。
項羽の使者が降参するよう勧告するために劉邦の陣にやってきます。すると劉邦はわざと豪華な食事を用意して使者たちを驚かせたあと「え?項羽の所から来たのか。なんだ」と言って、それを下げさせ今度は粗末な食事を並べさせました。そして「范増殿の所から来られたのかと思って」と呟きます。
使者たちが戻ってからそのことを報告しますと、見事に項羽は計略にひっかかり、范増が劉邦と通じているのではないかと疑います。范増は項羽の度量の小ささに呆れて、自分はもう引退すると言って故郷に帰ってしまいました。
さてうまく相手の参謀を離反させた劉邦ですが、この場を無事に脱出するのはかなり困難です。かなり非情な作戦を採りました。まず陣中にいた女性達に武具を付けさせ、まずこの一群を陣から走り出させました。当然項羽の軍がそれを襲ってきます。そこで今度は劉邦に変装した部下の紀信が身代りに立って戦車で飛び出しました。すると項羽は、さっきのは陽動作戦であったかと気づき、こちらに兵を向けます。そして劉邦自身は数十人だけを伴って別の門から走り出して闇に紛れてしまいました。
この後劉邦はまた軍勢を建て直し、成皋を拠点としますが項羽はこれを包囲。劉邦はまたまた逃げ出します。更に項羽の軍に連戦連敗を重ねますが、韓信が竜且を倒して一矢報い、(汜)水のほとりで漢軍の本隊と咎が率いる楚軍が睨み合います。ここで漢軍は奇策を用い、楚軍が川を渡ろうとしている途中を狙ってこれを壊滅させることに成功します。結局項羽の本隊が駆けつけてきますが、漢軍はさすがにこれとまともに戦いたくはないので姿をくらまします。結局、このあと両軍はしばらく対峙した状態が続きました。
【鴻溝の条約】長く膠着状態が続いたことから、この場で項羽が妥協してしまいます。両者話し合いの結果、鴻溝を漢と楚の境界と定め、それより東を楚、西を漢としてお互いの存在を認めることを約しました。そして両者各々の本拠地へ兵を返し始めるのですが、....ここで漢側は楚軍に追撃を掛けました。
勢いが漢のほうにあるとみた諸侯が劉邦に味方したこともあり、後方から思いがけず襲われた楚軍は次第に追い立てられ、垓下に至り、ここに城壁を築いて籠城しました。
【四面楚歌】垓下に項羽の本隊を包囲した劉邦たちはここでまた奇策を用います。包囲に参加した兵たちに楚の歌を盛んに歌わせたのです。
これを聞いた項羽たちは、自分たちの本拠地である楚の兵までもが劉邦の側に参加しているのか。しかもあんなに大勢、と強いショックを受けるのです。そして項羽は愛妾の虞美人をそばに寄せ、このような詩を歌いました。
力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き、気は世を覆う時不利兮騅不逝 時の利あらず、騅(すい)ゆかず騅不逝兮可奈何 騅のゆかざるを、如何すべき虞兮虞兮若何 虞や虞や、汝を如何せん
これに応じて虞美人は次のような詩を返して、舞を舞います。
漢兵已略地 漢兵すでに地を略し四方楚歌聲 四方には楚歌の声大王意氣盡 大王の意気も尽きなば賤妾何聊生 わらわ何ぞ生を安んぜん
そして明け方、項羽は敗北を悟って虞美人を自らの手で殺害し、死ぬ覚悟で敵陣を突破して出ました。その虞美人の血にぬれた場所からは美しい花が咲いたといわれます。これが現在でも残っている虞美人草です。
【捲土重来】項羽たちは漢軍の追手により、どんどん数が減っていきます。そしてやがて数十騎のみになったところで揚子江にたどり着きました。ここで烏江の亭長が王を哀れみ、命がけで船を用意して項羽たちのそばまで寄せました。そして、自分がお連れしますから川をお渡り下さい。そして江東の地で再起を図ってくださいと言いました。
しかし項羽はここで滅びるのが自分の運命なのだと言って申し出を断り、残る兵力で漢軍の中に突撃。斬死しました。
のちにこの地を訪れた詩人の杜牧がこのような詩を詠みます。
勝敗兵家不可期 兵家の勝敗は期することをえず包羞忍恥是男兒 恥を包み、恥を忍ぶことぞ男児たる江東子弟多才俊 江東の子弟、才俊多し捲土重来未可知 捲土重来、いまだ知るべくもなし
【帝位に上がる】垓下の戦いで項羽が戦死したのが、漢高祖5年の12月です。翌正月、諸侯は劉邦に皇帝の位に上がることを要請します。しかし劉邦は自分のようなものに皇帝などという地位はふさわしくないといって固辞。しかし群臣が何度も説得するため、みんなが皇帝がいた方が便利だというのなら、なっても良いであろうと言い2月の甲午の日(高祖5年2月3日, *1)、氾水の北で帝位に就きました。
都はいったん洛陽に定めますが、2年後長安に移しました。彼は元からの王族はそれで尊重するとともに、国家統一に功績のあった群臣たちの論功も怠らず、国は安定していきます。漢帝国400年の歴史の始まりでした。
------------(*1)以前にも説明したように、当時は10月(亥月)が年初なので2月(卯月)になっていても同じ高祖5年のままである。この日は現代のグレゴリウス暦に換算するとBC202年2月23日に相当する。-------------さて、項羽と劉邦の余談ですが、この二人は日本で言えば誰かに似ていると思う方も多いでしょう。恐らくいちばん多い答えが信長(秀吉)と家康というところか。項羽が信長(あるいは項梁が信長で項羽が秀吉)、劉邦が家康という対応。劉邦が漢に封じられたのが、家康が関東に封じられたのに似ています。項羽の気の短い性格と信長の気の短い性格、劉邦の狸親爺的な部分と家康の狸親爺的な部分というのも似ている感じがします。
もうひとつが、項羽が天智天皇、劉邦が天武天皇という見方です。その場合項梁は藤原鎌足ということになりますでしょうか。そうすると呂后は持統天皇、二代皇帝の恵帝が草壁皇子ということで、よく対応しています。
また劉邦も天武も赤王と呼ばれています。劉邦はあるとき山道を歩いていて大きな蛇がいるのを見て部下たちがこわがって戻ってくるのを、自ら行ってその蛇を斬り捨てて先に進みます。するとその直後に劉邦たちの所に一人の女が来て泣きます。なぜ泣くのか問うと「わが子が殺されたので泣いている」と言います。そして「私の子は白帝の子だが、蛇に化けて寝ていた時に赤帝の子に斬られた」と言って消えました。そこでこのエピソードにちなみ劉邦は兵を起こす時に、自分たちの旗印を赤く染めて用いたとされます。五行では、赤は火行、白は金行になり、火剋金で赤が白に勝つ道理になっています。
天武天皇は壬申の乱の際に、同士討ちを避けさせるため、自分たちの軍兵に赤い印を付けさせました。一方対する大友皇子(天智天皇の皇子)側は「金」という合い言葉を使用したと、日本書紀に書かれています。これも火剋金で赤が勝つ道理です(ですから、赤い印は本当に使用したかも知れませんが、「金」の合い言葉の方は後で付会されたものなのでしょう)。