日本史の中の女性(18)クーデンホーフ光子

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written by Lumiere on 96/09/11 12:24
今回のシリーズの最後は日本に生まれ世界に影響を与えた女性、クーデンホー フ光子を取り上げましょう。

彼女は正確には青山光子といい、東京市牛込区納屋町で1874年7月16日に生まれ ています。父親は青山喜八といって、骨董商を営む大地主、東京の「青山」と いう地名はこの家の苗字が由来であるという説もあります。

ある冬の日、この骨董店の前の凍った水たまりで一人の男性が滑って転びまし た。それを見たこの家の三女の光子は彼を家にあげて親切に介抱します。未だ にチョンマゲを切らずに文明開化に抵抗している喜八は男性が外国人であるこ とに気が付くとしかめっ面をしますが、光子はこれが縁となってこの男性の務 め先であるオーストリア公使館に勤務することになります。彼はオーストリア 代理公使の肩書を持つ、ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギ(Heinrich Coudenhove-Kalergi)伯爵でした。そして1892年、彼女は18歳でハインリッヒ と結婚することになるのです。

当時国際結婚というのは5000円札の人物・新渡戸稲造を初め、多くの前例はあ りましたが、やはり世間の目としては特に女性が外国人男性と結婚するという のは、もう人間でなくなってしまうかのような見られ方をした時代です。この 結婚に対しては喜八も当然猛反対しましたし、またハインリッヒ側も伯爵家と いうことで、東洋の辺境の異教徒の国の娘などと結婚するということに対して 相当の抵抗があったようです。しかし二人はこれを乗りきり、1895年3月26日、 めでたく入籍にこぎつけています。その時既に二人の間には光太郎・栄次郎と いう二人の男の子も生まれていました。

これでやっと落ち着いたのも束の間、夫のハインリッヒに帰国命令が出ます。
悩む光子ですが、やはり夫に付いて行くことにし、子供たちを連れ、両親やき ょうだいに別れを告げて、遠い国へと旅立って行きます。

クーデンホーフ=カレルギ家の領地はオーストリアのボヘミア地方にありまし た。一家はそこのロンスベルク城で充実した日々を過ごし、次々と5人の子供 が生まれました。当時の伯爵家というのはまだ言葉がよく出来ないミツコの語 学教師・話相手役、子供たちそれぞれの家庭教師、料理人、子守、御者、森番、 庭師などと十数人もの使用人のいる大きな家でした。

優しい夫と7人もの子供に囲まれて幸せな日々を送っていた光子ですが、東洋 で日露戦争が始まった頃、突然彼女は結核にかかり、一家は治療の為、みんな で南チロルのアルコに移り住みます。この闘病生活は大変だったようですが、 彼女は自分のお国が頑張っているから私も頑張らなければと言って気力を振り 絞ります。そして日本がロシアに勝つと、ほんとに光子の病気もよくなってし まいました。

一家は喜んでホベミアに戻ります。が、ここで光子は大きな不幸に見舞われる ことになります。1906年5月16日、夫ハインリッヒの突然の死。彼の愛情だけを 頼りにこの異国の地で頑張ってきた光子にとって、その衝撃はあまりにも大き いものでした。この夫の死は光子を『東洋の花から西洋の竜に』変身させます。

ハインリッヒは遺書で全ての財産を光子に、と書いていましたが、親戚一同は 東洋人などに伯爵家を渡してなるものかと光子に譲渡を迫ります。しかし光子 は動じず、裁判で争って、確かに夫の遺産を引き継ぎます。そして子供たちを ウィーンの名門学校に入れて、伯爵夫人として社会的に活動を始めるのです。

この頃から彼女はウィーンの社交界にも顔を出すようになります。それまでは 誰も日本などという国がどこにあるのかも知らなかったのですが、日露戦争で 大国ロシアを負かした国として当時日本はヨーロッパで注目のまとでした。そ こで、彼女を見る人々の目も珍奇な物を見るような目ではなく、驚異を持って 見られ、彼女は社交界の花形になります。

しかし、ここで彼女を怒らせる事件が起きます。次男のリヒャルト(栄次郎) がサロンを通して知り合った女優イダ・ローランと駆け落ちするのです。彼女 はなまじイダと親しかっただけに激怒、リヒャルトを勘当します。

やがて第一次世界大戦が勃発。3男のゲロルフは志願兵になると言い出します が、愛国心の強い光子はこれに喜び、司令官の所へ行って、息子をぜひ前線に 出して活躍させて下さいと申し入れます。普通だったら貴族の息子の親が訪問 して来たら危ない所へは行かせないでくれと頼むのが普通で、しかも光子の母 国日本はオーストリアにとっては敵国なので、司令官はこれに大変感動し、最 大限の賛辞を彼女に贈りました。

戦争の間、ミツコはホベミアのストッカウ城に住んでいました。この戦争には 長男のハンス(光太郎)も参戦、彼は戦線の中でユダヤ人女性リリーと結婚し て帰って来ましたが、これも光子を怒らせるものでした。伯爵夫人としては長 男にはできれば相応の身分のある女性と結婚させたかったからです。しかし、 彼女は二人をロンスベルク城に住まわせ、二人の間にはピクシーという女の子 が生まれます。ピクシーは後、次女のオルガとともに光子の心の支えとなりま した。

この戦争が終わった頃、パリで「ミツコ」という香水が発売されました。この 香水の名前そのものは一般的に日本人女性をイメージして付けられたものだそ うですが、人々はオーストリアで一際存在感を持つクーデンホーフ伯爵夫人・ ミツコにこの香水を結び付けて連想しました。

1924年、次男のリヒャルト(Richard Nicolaus Coudenhove-Kalergi,1894-1972) は第一次世界大戦の結果を見て、このようにヨーロッパの人間が互いに戦い合 っていては、やがてヨーロッパは没落してしまうとして、ヨーロッパを建て直 す為にはヨーロッパの全ての国が合体して一つの国になるべきだという「パン・ ヨーロッパ」思想を打ち立てます。そしてパン・ヨーロッパ連盟を設立、雑誌 「パン・ヨーロッパ」を創刊しました。

彼の思想はフランス外相アリティート・ブリアンやドイツ外相グスタフ・シュ トレーゼマンらの共感を呼び、具体的な条約作成への動きまで具体化しますが、 第2次世界大戦の勃発により頓挫します。

パン・ヨーロッパ連盟の本部はナチスに急襲され、リヒャルトとイダは危うく 難を逃れ、スイス政府の協力で国外脱出、そして映画「カサブランカ」並みの 危ない橋を渡ってアメリカに逃れました。

彼はアメリカでもこの思想を唱え続け、後この運動は第2次世界大戦が終わっ てから、イギリス首相チャーチルらの活動によって1958年1月1日欧州経済機構 (EEC)の成立となって実を結びます。そしてこのEECは1967年7月1日に はもっと統合が進んでECとなり、現在その次の段階として通貨統合を目指し ています。

クーデンホーフ光子という人は最近になって日本人がやっと「しなければなら ない」と思い始めた「国際化」ということを100年前に個人でやりとげた人と です。彼女は明治時代におけるヨーロッパへの民間大使のような働きをしまし た。クーデンホーフ伯爵が日本人の奥さんをもらって帰国するという話を聞い た時、親戚や知人たちは何か訳の分からない服を着て入墨でも入れた女が来る のではないかと思っていたところ、ごく普通の感じの、上品な女性が来たので びっくりした、という話もありますが、それくらい偏見の強かった日本という ものを彼女はヨーロッパに存分にアピールしました。そして又、彼女は日本と オーストリアという二つの祖国を持つ、開かれた国際人となったのです。

そして、その「国際化」ということを、もっともっと進めたのが皮肉にも彼女 が勘当した次男リヒャルトの思想でした。その結実としてのECは世界の平和 に貢献することになる人類全体への大きなプレゼントです。

晩年、光子は中風に悩まされ、次女のオルガに世話をしてもらい、孫のピクシ ーとの文通だけを楽しみにして暮らしていました。そして1941年8月27日夜、 そのオルガだけに看取られて死去。7人の子供たちの内来ることができたのは 3男のゲロルフと3女のイダだけでした。長男ハンスは妻がユダヤ人であるこ とからローマに逃げていましたし、次男のリヒャルト夫妻はアメリカ亡命中、 長女のエリザベートは既に亡く、4男のカルルはギリシャに行っていました。
彼女はボヘミアに眠る夫のそばに埋葬してくれるように頼んで死にましたが、 オルガ自身もその後難民の身となり、この願いは叶いませんでした。

現在、ゲロルフの子供や孫たちがロンドンとウィーンに住んでおり、ピクシー はアメリカ在住、カルルはオーストラリアを経てギリシャで大学教授をしてい ましたが、現在はスイスで気楽な文筆業とのことです。彼女の子孫たちも大い に国際化しているようです。

この話を終わる前に、クーデンホーフ光子たちと少しだけ軌跡の交わる国際人 たちにも少しだけ触れておきましょう。それはシーボルトの子孫です。シーボ ルトは有名なお滝との間に楠本イネをもうけており、彼女が日本で最初の女医 になるのですが、シーボルトは帰国後ヘレーネという女性と再婚して3男2女 をもうけています。そして、その中の長男アレクサンダーと次男ハインリッヒ は後に父とともに日本にやって来ており、ハインリッヒはちょうどクーデンホ ーフと同じ頃、やはりオーストリア代理公使を務めています。

ハインリッヒは異母姉のイネの応援もあって岩本ハナという女性と結婚し、オ ットー(於莵)、レン(蓮)という子供が生まれています。アレクサンダー・ ハインリッヒのシーボルト兄弟は日本の華族制度の産みの親のような人なのだ そうですが、この二人が帰国する時、岩本ハナは光子とは違って日本に残る道 を選びました。

しかし、彼女もシーボルト夫人として日本の華族界では非常に大事に扱われ、 福沢諭吉の娘の踊りの師匠であるとか、学習院の主一館寮母などを務めていま す。クーデンホーフ光子とシーボルト花というのは舞台は違っても似たような 苦労をした部分もあったようです。

明治時代は江戸時代に更に輪を掛けて女性の人権が抑圧された時代ですが、そ の中にもクーデンホーフ光子たちを初め、津田梅子・荻野吟子・川上貞奴など 抑圧をものともしなかったかのように自由にはばたいた女性たちもいました。


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