↑ ← → 日本史の中の女性(13)日野富子
written by Lumiere on 96/09/08 21:30
時代は進んで行きます。

鎌倉・室町・戦国・江戸と続く武士の社会の中では女性の活躍の場は非常に少
なかったといえます。大陸から入ってきた儒教は特に女性の生活を社会的なも
のから家庭的なものへと押し込めようとしました。しかしチャンスさえあれば
力を発揮する人たちはいたのです。その中から今回と次回でやや似たケースと
なる二人の女性を見てみましょう。今回は日野富子です。

日野富子は応仁の乱の原因を作った人のように言われますが、彼女に全ての原
因を押し付けるのは酷でしょう。

室町幕府の足利家も南北朝を統合し、更に自らが天皇にとって代ろうとまでし
た三代将軍足利義満の後はやや人材不足気味になり、実権は次第に管領を務め
る畠山・斯波・細川等の有力大名の手に移っていきます。制度というものが決
して権力を保証しない、という非常にいい例でしょう。権力は実力のある人が
獲得するものなのです。

そしてその足利家自体が没落を始めます。1441年には義満の息子で6代将軍の
義教が暗殺されるという事件がありましたし、その息子で8代将軍となった義
政は政治に無関心で遊んでばかりで、後花園天皇から注意を受けるほどでした。
そしてこの困った義政の妻が日野富子です。

当時幕府の実力者である紀州の畠山家・越前の斯波家で相続争いが起きていま
したが、その双方が細川家と山名家に支持を求め、対立がより根深くなってい
ました。色分けとしては

  畠山政長 − 細川勝元 − 斯波義敏   (東軍)
  畠山義就 − 山名持豊 − 斯波義廉   (西軍)

となります。ここで彼らを調整すべき足利家は頼りない義政が当主。そして更
にその足利家自身が難問を作ってしまいます。

義政と日野富子の間になかなか子供ができなかった為、足利家では次期将軍と
して弟の義視を還俗させて、後継者にします。ところがその直後富子に男の子
義尚が生まれてしまうのです。このため、富子としてはこの義尚を次期将軍の
位につけたいと考えるのですが、義視は細川勝元の支援を受けており、富子は
山名持豊に支援を求めたため、足利家自体が分裂状態に陥ります。そして調停
者無き対立は自然と武力衝突へと発展し、1467年応仁の乱が勃発するのです。

この戦乱によって京都は焼け野原となり、貴族たちは戦乱を逃れて地方に避難、
天皇家も将軍家も財政的な基盤がなくなって、戦国時代へと時代が移っていく
ことになります。

そんな中にあって、日野富子は乱のさなか酒を飲んでるばかりで何もしない義
政に代って、自らが幕府を指揮・立て直す役目を果たさざるを得なくなります。

彼女は前回取り上げた北条政子ほどの政治的な能力はなかったものの、経済的
なセンスに恵まれていました。この混乱の世の中でうまい具合に税金を徴収し
たり、米相場に参加したり貸金業までやったりして資金を調達、幕府を何とか
回らせていき、困窮を極めた天皇家にも財政支援をします。天皇家は後土御門
天皇が亡くなった時など葬儀の費用が調達できなくて遺体が40日間も放置され
るなどといった悲惨な状況でした。

応仁の乱自体は1477年頃、多くの大名が京都から引き上げて領地に戻ってしま
った事から自然消滅しますが、その後、大名たちは力を失った幕府を見限って、
各自勝手に隣の国を侵略したりして領土の拡張を図ります。このような時代が
それから約100年続く訳ですが、日野富子は名ばかりとなってしまったとはいえ
一応武家の頭領である足利家を全力で支えていきました。

そして、将軍職は日野富子の希望通りに義尚に引き継がれ、義尚が成人するま
では富子がその補佐をしていました。特に天皇家などとの対外折衝に関しては
義尚成人後も手伝ったりしているようです。彼女はトラブルの原因を作った人
でもありますが、それは彼女が悪かったというより力不足だったという面が強
く、彼女は彼女なりに一所懸命でしたし、彼女がいなかったら間違いなく足利
幕府はこの時点で消滅していたのではないでしょうか。




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