日本史の中の女性(9)孝謙天皇

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written by Lumiere on 96/09/05 13:28
738年、聖武天皇は光明皇后との間の子供、高野姫(阿倍皇女)を立太子させ ます。これは女性が皇太子になった初めての例です。それまでの女帝は皆前の 天皇が死んでしまってから、誰が後をつぐかもめた上で「あんたやんなさい」
という感じで天皇になっているのですが、彼女は初めから皇太子として次の天 皇を約束されたのです。

そして聖武天皇が仏門に入るために749年退位、高野姫は孝謙天皇として即位 します。時に32歳。しかし、彼女は即位はしたものの実権はなく、政務は藤原 仲麻呂がとっていました。そして何もできないまま、仲麻呂の亡き長男の嫁の 現在の夫という立場にあった、仲麻呂からすると息子に等しい存在の大炊王に 譲位させられてしまいます。不本意な在位時代と無念の退位でした。

ここで即位した淳仁天皇ですが、彼も仲麻呂のロボットのような存在でした。
言われるままに仲麻呂を臣下としては異例の太政大臣にまであげ、恵美押勝と いう名前まで与え、仲麻呂好みの儒教的な政策が施行されていきます。

ところが、ここに道鏡(どうきょう)という密教僧が登場してきます。彼は密 教の呪術や薬草・治療などの知識に深く、いつの頃か孝謙上皇に仕えていまし た。仲麻呂は折りしも平城京に代る新しい都を北の地方に求めようと、天皇と 上皇を伴い、近江の国へ行くのですが、この時ハードスケジュールが災いして 孝謙が病に倒れます。当然道鏡が熱心に看病するのですが、この二人の仲を仲 麻呂が疑ってあらぬ噂を立てる、という事件がありました。

怒った孝謙上皇は仲麻呂たちを残して都に戻り、五位以上の貴族を全員集めて 「今からは通常の祭祀などの小事は天皇が行なうが、国家全般に関する大事や 賞罰は全て上皇たる自分が行なう」と宣言するのです。

慌てた仲麻呂は太政大臣の立場を利用して自分の3人の息子を参議に任じる等 の対抗策をとりますが、かえって反感を持つ者を作り、ついに両者は軍事衝突 に至ります。

これに孝謙は勝ち、仲麻呂は斬られます。そして淳仁天皇は衣服どころか履物 もはけない状態で上皇軍に拉致され廃位の宣告を受け、幽閉、数年後には殺害 されています。そして孝謙は重祚、称徳天皇となって、道鏡を太政大臣・法王 に任命して仏教色の強い政治を行ないます。やはり女の子は強かったのです。

称徳天皇は皇太子は定めませんでした。そして皇位を自分が師としてあがめる 道鏡に譲りたいと考えます。しかし道鏡には天皇家の血は流れておらず、その ような決定をしようとすると、臣下の激しい抵抗が予想されました。そのとき おあつらえ向きに宇佐八幡御神託事件が起こります。

宇佐八幡の神が「道鏡を天皇にすれば国は安泰となるであろう」というお告げ をした、という噂が都に流れて来たのです。早速これを利用しようと考えた称 徳天皇は、非常に信頼していた側近の和気広虫の弟、清麻呂を宇佐へ派遣し、 その神託を確認させようとします。

ここで清麻呂は天皇の意向通りの神託を持ち返るべく九州の宇佐まで行くので すが、彼はこの聖地に立つ神殿に入った途端、その雰囲気に圧倒され、頭が空 白になります。そして確かに彼の頭の中に神の声が響きわたりました。

彼は帰京、天皇に自分が聞いた通りの神の声を伝えました。「古えより天皇と 臣下の別は明確である。臣をもって君に代えることはできない」乙巳の変の時 中大兄皇子が母の天皇に言ったのと同じ原理です。称徳天皇は激怒、清麻呂と 姉の広虫を穢麻呂(きたなまろ)と穢虫と改名させて、遠流に処します。

しかし、この清麻呂の命を賭けた上奏によって称徳天皇は皇位を道鏡に譲るこ とはできなくなり、失意のまま翌年病に倒れ、亡くなります。この死によって 女帝の時代は終わります。この後、女帝は850年後の明正天皇まで出現しない のです。そして奈良時代ももう終わりを告げようとしていました。


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