日本史の中の女性(6)額田姫王
written by Lumiere on 96/09/05 07:54
さて、今回の女性は「ぬかたのおおきみ」と読みます。『額田姫王』と書きま
したが『額田王』と書かれることの方が多いようです。
彼女は鏡王の娘、と日本書紀に記されていますが、鏡王がどういう出自の人か
はよく分かりません。(中臣鎌足の恋人の鏡女王と何か関係あり??)近江を
地盤とする人であろうということのようです。彼女は歌人として名高く、万葉
集に12首の歌が収録されています。一番早いものが大化4年(648)のものです
ので、一番若いケースで633年頃の生まれではないかと考えられます。
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の京の 仮廬し思ほゆ
彼女は初め中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の弟大海人皇子(おおあまと
おうじ)と愛しあい、十市皇女(といちのひめみこ)を設けます。しかしその
後、今度は兄の中大兄皇子の妻の一人になるのです。
これが額田王の心変りによるものなのか、或は中大兄皇子の権力によるものな
のかは不明ですが、大化の改新は中大兄・中臣鎌足・大海人の三人によるトロ
イカ体制であったことを考えると、中大兄が権力に物を言わせて弟の恋人を奪
うということは考えづらく、むしろ額田王が自ら進んで兄に乗換えたと考えた
方が自然でしょう。
そして十市皇女は中大兄と采女の宅子娘(やかこのいらつめ)との間の子供、
大友皇子と結婚します。額田王としては、自分と前の亭主の間の子供が、自分
の現在の夫の子供と結婚する訳ですから、もし多少大海人皇子に悪いなという
気持ちがあったとしても、非常に満足と安心を覚えられる結婚だったのではな
いでしょうか。しかも相手は中大兄の子供とはいっても采女が産んだ子供です
から、政治的な騒動に巻き込まれる心配は少ないと考えたと思います。二人の
間には葛野王という男の子まで生まれます。
しかし歴史は皮肉な道をたどり始めます。中大兄は皇后を含めて正式の妃が4
人いましたが、その誰との間にも男の子が生まれませんでした。ただ一人遠智
娘(持統天皇の母)が建皇子を産んでいましたが、建皇子は言葉が不自由で、
皇太子とするには問題がありました。そこで世間は中大兄の次はこの政権を共
に支えて来た弟大海人皇子の番であろう、とささやくのですが、ここで身分の
低い女の産んだ子として全く問題にされていなかった大友皇子が非常に優秀な
才能を発揮してきたのです。彼は群臣の注目するところとなり、中大兄も彼を
重用、やがて太政大臣にまで抜擢します。
これで納まらないのは大海人です。しかも今までの兄の手法からすると自分は
葬られるかも知れないと感じた彼は、いち早く「仏門に入るので宮中の仕事か
らお暇を願いたい」と言って都を脱出、妃のさらら姫やごく少数の側近だけを
伴い、吉野の里で隠居生活に入ります。そして中大兄(天智)の病死。古代に
おける最大の内戦が大友皇子と大海人皇子の間で勃発しました。壬申の乱。こ
れを制した大海人が皇位を獲得します。大友皇子は戦死。十市皇女と母の額田
王は再び大海人皇子の保護の下に戻ります。
そして十市皇女は夫を父に殺された悲しみを癒す日々を送る内に、異母弟の高
市皇子と心を通わせるようになります。しかし、この新しい恋の日々は突然の
十市皇女の死によって終わるのです。まだせいぜい30歳くらい。この若すぎる
死は自殺ではないかと言われています。何があったのでしょうか。
この繊細かつ不幸な娘に対して、おおらかな母は長生きしたようです。80歳
くらいまで生きたという説もありますが、そうだとしたら当時としては非常に
長寿ということになります。そもそもこの額田王という人は、天智天皇の妻に
なった後で、宮廷の宴会で前夫大海人を見つけて手を振り、こんな歌を歌った
人です。
あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る
これに対して大海人皇子も逃げずにきちんと返歌を返しています。
紫の 匂ほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
回りの人たちは額田王の奔放さに息を飲みつつも、うまく返した大海人皇子の
器の大きさを見直したことでしょう。むろんこんなやりとりは中大兄と大海人
との関係が非常に良好だからこそ許されることでしたでしょうし、中大兄も、
この自由な感覚の持主の額田王に惚れ直したかも知れません。そして又彼女は
自分の妃にして縛っておける女ではない、と再認識したのではないでしょうか。
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