日本史の中の女性(1)卑弥呼
written by Lumiere on 96/08/31 15:57
やはり、この女性から始めましょう。「卑弥呼」の読み方は大丈夫とは思いま
すが「ひみこ」です。彼女は魏志倭人伝に登場する3世紀の日本の一地方の連
合王国の王であり、その連合王国は「邪馬壹國」と呼ばれていました。
もともとこの地方には男性の王が立っていて、国が乱れ幾つもの勢力が争って
いたのですが、みんなで話し合い共同で彼女を王として立てたところ争いが収
まったとされます。卑弥呼は「鬼道」につかえ、よく民を「惑わす」とありま
すので、シャーマン的な王であったのではないかと想像されています。
彼女は即位した時点でかなり年長であったものの夫はなく弟がひとりいました。
そして彼女自身は即位後はあまり民衆の前に姿をあらわさず、弟がその取り次
ぎをしていました。
彼女は何度も魏に貢ぎ物をしており、そのお返しに「親魏倭王」の金印や百枚
もの銅鏡をもらっています。そしてある時は隣国との戦争に魏から援軍を派遣
してもらって、これを撃破したりしています。
彼女の死後はまた男性の王を立てたものの国が定まらず、結局卑弥呼の13歳
の娘「臺與」を立てて王とした所平和を取り戻したとされます。
卑弥呼が最初に魏に使いを送ったのが238年。魏に援軍を請うたのが247年の事
ですので卑弥呼の治世は10年程度と推定できます。なお魏の援軍が帰ったの
は臺與即位後ですから、援軍・卑弥呼の死・臺與即位というのはせいぜい1〜
2年程度の中でのできごとだと思われますので仮に臺與即位を248年とすると、
臺與は236年生まれ。つまり卑弥呼が即位する少し前ということになりますので
即位した時年長であった、と言っても40歳くらいだったのではないかと想像
できます。すると亡くなった時が50歳くらいで、当時としては寿命でしょうか。
夫はなかったということですが、これは卑弥呼即位の直前くらいに亡くなって
いたか、或いは最初からいなかったかでしょう。その場合想像力を豊かにする
と、卑弥呼は巫女的な人のようですから、祭り或いは儀式などにより巫女とし
て産んだ子が臺與だったかも知れません。
卑弥呼に関しては文献はこの魏志倭人伝のみですので、何を書こうとしても想
像になってしまうのですが、この3世紀のこの時期に日本で少しずつ大きな国
が作られていく段階で、巫女的な王が立って全体の統合の象徴になるという手
法がここに成立しつつあったというのは興味深いことで、この「邪馬壹國」が
大和朝廷につながるのかどうかは分かりませんが、やはり聖徳太子以降の日本
の政権構造のモデルがここに芽生えつつあったことは、卑弥呼という人の意義
を深いものにするかも知れません。
石ノ森章太郎氏が書いた卑弥呼のマンガがありましたが、その中で卑弥呼はい
くら年をとっても若いままの不思議な女性として描かれていましたが、これだ
け大きな国の王になるほどですから、卑弥呼の巫女としての力は相当なものだ
ったのではないでしょうか。当時としては目新しかったアジア北方系のシャー
マニズムの遣い手だったのではないか、という想像をする人もあるようです。
日本の歴史は、この後266年に臺與が今度は晋に朝貢してから、4世紀後半に、
やはり巫女的な王神功皇后が朝鮮に出兵するまで約100年間、大陸の文献からは
消えてしまいます。その間は国内の古事記・日本書紀をたどることになるので
すが、こちらは年数のスケールが不明確なのが欠点です。とはいえ、その間に
も注目すべき女性はいますので、次回はその辺りを見ていきましょう。
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ところで、「邪馬壹國」の読み方なのですが、素直によむと「やまいこく」と
しか読めないのですが、古来この「壹」は「臺」の誤記ではないか、いう議論
があります。古い字ばかりで訳が分からないと思いますので現代の文字で書け
ば「壹=壱」は「臺=台」で、ここから「邪馬台国」(やまたいこく)という
読み方がまかり通っています。そして「たい」は「と」という音に通じるとし
て、これは「やまと」のことなのだ、という方向に持っていく訳です。
また卑弥呼の娘の臺與ですが、またまたこの「臺」を逆に「壹」の誤記と考え
て、「いよ」と読む人がかなりあるようですが、これもそのまま読めば「たい
よ」又は「とよ」でしょう。
また「邪馬壹國」がどこにあったのかについては古来から九州説と畿内説とが
対立していますが、どちらも決定打がありません。また、この国が大和朝廷と
つながっているのかどうかについても肯定・否定の両方の意見があります。
日本書紀の作者は歴代天皇の在位年数として伝えられている数字を逆算してい
ったら、ちょうど卑弥呼の時代が神功皇后の時代と一致してしまったため、卑
弥呼は神功皇后のことかも知れないと考えた節があります。ただし文脈からす
るとその程度は「ひょっとしたら」程度のものだったようで、単に神功皇后の
巻にこの魏志倭人伝の記述を一部引用するだけに留めています。実際には卑弥
呼と神功皇后は行った事蹟が違い過ぎますし、神功皇后の娘は王になっていま
せんので、全く別人で時代も異なっていると考えた方が自然です。
卑弥呼は天照大神のモデルではないか、という説もあります。そして古事記の
天岩戸に天照大神が隠れたというのは卑弥呼の死を表しており、復活した天照
は実は卑弥呼の後を継いだ彼女の娘臺與ではないかとするものです。面白い議
論ですが、証明するのは難しいかも知れません。
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